に渡る辛労《しんろう》が山吹の体を蝕《むしば》んだと見えとうとう山吹は病気になった。五歳になった猪太郎が必死となって看病はしたが、定命《じょうみょう》と見えて日一日と彼女の体は衰えて行き死が目前に迫るように見えた。
 ある日彼女は猪太郎を枕もとへ呼び寄せた。そうして彼女は云ったのである。
「……妾《わたし》の云うことをよくお聞き。お前のお父様は城下の人で五味多四郎というのだよ。……妾はその人に欺瞞《だま》されたのだよ。――じきに妾は死ぬだろう。ああこの怨《うら》みこの呪詛《のろい》を返すことも出来ずに死ぬのだよ。妾は死んでも死にきれない! 猪太郎や妾にはお願いがある。お母さんに代って憎い多四郎へ、お前から怨みを返しておくれ! それが何よりの孝行だよ! ……おいでおいで猪太郎や妾の側《そば》へ来るがいいよ。腕をお出し右の腕をね。口の側へ持っておいで。さあお母さんの口の側へね」
 山吹は猪太郎の右の腕へ確《しっか》り喰い付いて歯形を付けた。「その歯形は永久消えまい。お母さんの形見だよ。その歯形を見る度にお母さんの怨みを思い出しておくれ。そうして憎い多四郎へお母さんの怨みを返しておくれ」
 こう云ってしまうと山吹はいかにも安心したようにさも平和《やすらか》に眼をとじた。そうしてそれから二日ばかり活きたが三日目の朝には息絶えていた。
 五歳の猪太郎はその日以来全く孤児《みなしご》の身の上となった。しかし彼は寂しくはなかった。猿や狼や鹿や熊が彼を慰めてくれるからである。
 こうして彼の生活は文字通り野生的のものとなり、食物《くいもの》と云えば小鳥や果実《このみ》、飲料《のみもの》と云えば谷川の水、そうして冬季餌のない時は寂しい村の人家を襲い、鶏や穀物や野菜などを巧みに盗んで来たりした。
 こうしてまたも五年の月日が倏忽《しゅっこつ》として飛び去った。そうして猪太郎は十歳《とお》となったがその体の大きさは十八、九歳の少年よりももっと[#「もっと」に傍点]大きくもあり逞《たくま》しくもあり、その行動の敏活とその腕力の強さとは真に眼覚《めざ》ましいものであった。且つ彼の頭脳《あたま》のよさ! これも正しく驚くべきもので、まことに彼は窩人の血と城下の人間の血とを継ぎ、荒々しい自然界に育てられたところの不思議な生物《いきもの》と云うべきであったが、この猪太郎こそこの物語すなわち「八ヶ嶽
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