。草を分け枝を切っても今度こそは逃がしはせぬと、部落の男女子供まで一人残らず馳せ集まり、人数おおよそ五百人余り山を囲んでさっきから探しておるのでござります」
「なるほど」
と法師は眼をとじてしばらくじっと考えていたが、「断じて私《わし》は逃げはせぬ。――しかし山は去ることにしよう」
「それが安全でござります。何より安全でござります」
「いや、私には危険はない。このままこの山におるとしても、私には神の恩寵《おんちょう》がある。窩人達にも捕われもしまい。一度《ひとたび》私が手を上げたなら忽然《こつぜん》と山火事が起こるであろう。もしまた足を上げたなら雪崩《なだれ》が落ちても来よう。……以前《まえかた》私は山火事を起こし彼らの集会《あつまり》を妨《さまた》げたことがある。もっとも真実《まこと》の山火事ではない。ただそう思わせたばかりであっていわば幻覚《まぼろし》に過ぎなかったが彼らは恐れて逃げてしまった。……私は彼らを恐れてはいない。私の恐れるのは自分自身だ。……私はこの山へ一年前に来た。最初は数十人の信者があった。しかし今はただ一人――ただ一人お前が残ったばかりだ。なんとはかない私の力であろう! 人を説くにはまだ早い、人を教えるのは僭越《せんえつ》である。それで山を去ろうというのだ。去ってそうして尚一層自分自身を磨《みが》こうというのだ」
この時ドッと鬨《とき》の声が眼の下の林から湧き起こった。得物を引っさげた窩人の群が雪を蹴立てて駈け上って来る。
しまった! と岩太郎は心で叫び、
「もう遅いかも知れませぬが、いそいでお隠れなさいまし! 一刻も早く、白法師様!」
しかし岩太郎がこう云った時にはもうそこにはいなかった。と見ると遥かの山の峰に何やら動くものがある。そうしてそこから風に伝わってこういう声が聞こえて来た。
「おさらばじゃ岩太郎! またお前達とも逢うだろう。それまではおさらばじゃ」
「ああ、あれが白法師様だ」
岩太郎は呟《つぶや》いて岩の上から幾度も頭を下げたものである。
二二
宗介天狗のご神体が無慙《むざん》に傷つけられ穢《けが》されたことは、笹の平の窩人達にとっては正に青天の霹靂《へきれき》であり形容も出来ない恐怖であった。白法師さえ取り逃がしたので、彼らはすっかり絶望した。絶望に次いで混乱が来た。平和であった窩人部落は一朝に
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