てくださるに相違ない。――さっき俺達は喧嘩したねえ。そしてもう俺は逢わぬと云ってお前の所から飛び出して行った。……しかし俺はまた来たよ。それは他の理由《わけ》でもない。このお方をお前に紹介《ひきあわ》せたいためだ。山吹! このお方はお偉い方だ!」
 頸垂《うなだ》れていた顔を上げ山吹はまたその人を見た。とその人はまた微笑し、さも謙遜《けんそん》に堪《た》えないように、
「いやいや私《わし》は偉い人でも勝《すぐ》れた人間でもありませんよ。俺《わし》は平凡な人間です。しかし俺は真実《ほんと》を語りそして真実《ほんと》を行っています。あるいはこの点が普通の人物《ひと》と違っている点かもしれませんな。……それはとにかく今日|先刻《いましがた》俺はこの方と逢いました。そうです向こうの林の中で岩太郎さんと逢ったのです。そうして俺はこの方と暫時《しばらく》無駄話をしましたっけ」
「そうです」
 と岩太郎は感謝の眼《まなこ》を上げ、
「……恋を失った口惜しさに俺《わたし》は頭の毛を掻《か》き※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《むし》りながら林の中を走っていました。その時ヒョッコリあなた様にお目にかかることが出来ました。俺《わたし》は一眼あなた様を見た時すぐに懐かしく存じました。それで俺は何も彼も――山吹との恋のことや、その恋が今日破れたことまでお話ししたのでございます」
「そうそうあの時のあなたというものはまるで狂人のようでしたね」
 妙な人は打ち案じながら、
「けれど暫時《しばらく》俺《わし》を相手に無駄話をしておられるうちに次第に心が和《なご》みましたな。……さて、話は変わりますが、ひとつ俺《わし》は山吹さんに物語を聞かせてあげようと思う。それは決してあなたにとって損の話ではありません。いかがです、お聞きなさいますか?」
「どうぞおきかせくださいますよう」
 柔順《すなお》に山吹は云ったものである。
「……第一番に云って置きたいことは俺《わし》が旅行家だということです。――俺は肥前の長崎にもおりまた大坂にもおりました。また京師《けいし》にも名古屋にもあらゆる所におりました。もちろん江戸にもおりました。――さて、そこで山吹さん、どこの話をしましょうかな?」
「はい」と山吹は活気づき、
「それではどうぞ江戸の話をお聞かせなされてくださいまし」
「よろしゅうござる、江戸の
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