」喘《あえ》ぎながらこう云うと、女は葉之助を撫で廻した。
「しっかりなされ、大丈夫でござる」葉之助は女を慰めた。「狼藉をされはしませぬかな?」
「あぶないところでございました。ちょうどお姿が見えましたので、やっとモギ放して逃げましたものの、そうでなかったら今頃は、……おお恐ろしい恐ろしい!」女はブルブル身を顫わせたが、「お送りなされてくださりませ! お送りなされてくださりませ! いまの悪者が取って返し、襲って参ろうも知れませぬ。つい近くでございます。お送りなされてくださりませ!」取り付いた手を放そうともしない。
「よろしゅうござる、お送りしましょう」葉之助は女を掻いやった。「で、家はどの辺かな?」
「愛宕下でございます」女は髪をつくろっ[#「つくろっ」に傍点]た。
「愛宕下ならツイ眼の先、さあ、おいでなさるがよい」云い云い葉之助は先に立ち、その方角へ足を向けた。
「それはマアマア有難いことで、もう大丈夫でございます」
「若い女子がこんな深夜に、一人で歩くということは、無考えの上にちと[#「ちと」に傍点]大胆、今後は注意なさるがよい」
 若い女を助けながら、家まで送るということが、葉之助にはちょっと得意であった。まして女は美人である。そうしてひたすら[#「ひたすら」に傍点]縋り付いてくる。彼は多少快感さえ感じた。
 しかし女が立ち止まり、「ここが邸でございます。主人からもお礼を申させます。どうぞお立ち寄りくださいまし」と、一軒の屋敷を指さした時には、喫驚《びっく》りせざるを得なかった。と云うのはその屋敷が、敵と目差している蘭学医の玄卿の屋敷であったからである。
「おおこれは玄卿殿の住居、それではそなたはこの屋敷の……」
「ハイ小間使いでございます。どうぞどうぞお立ち寄りを」女は袖を放さなかった。
 そこで葉之助は考えた。
「この屋敷へ入り込むのは、虎穴《こけつ》へ入ると同じだが、そういう冒険をしなかった日には、虎児を獲《え》ることはむずかしい[#「むずかしい」に傍点]。それにこっちでは玄卿めを、敵と目差してはいるものの、先方ではまだまだ知らない筈だ。こういう機会に敵地へ入り込み、様子を探っておいたならまたよいこともあるだろう。それに俺《わし》は玄卿をこれまで一度も見たことがない。これをしお[#「しお」に傍点]に行き会って、人物を見抜くのも一興である」
 そこで葉之助は
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