どうで知れずには済まされぬ。それより私《わし》は町方に住んで、自由に活動するつもりだ。ところでお前さんに頼みがある。ご迷惑でも今夜から、下屋敷の方へ出張ってくだされ。そうして例の白粉がもしも地面に撒いてあったら、用捨なく足で蹴散らしてくだされ。これは非常に大切なことだ」
「かしこまりましてござります。毎晩出張ることに致しましょう」
 葉之助は意気込んで引受けた。

         二

 北山と一学とは人目を憚《はばか》り、駕籠でこっそり帰った。そうしてどこへ行ったものか、しばらく消息が解らなかった。

 さてここで物語は少しく別の方へ移らなければならない。
 ここは寂しい宇田川町、夜がしんしん[#「しんしん」に傍点]と更けていた。
 源介という駕籠舁《かごか》きが、いずれ濁酒《どぶろく》でも飲んだのであろう、秋だというのに下帯一つ、いいご機嫌で歩いていた。
「金は天下の廻りもの、今日はなくても明日はある。アーコリャコリャ。アコリャコリャ」
 こんなことを云いながら歩いていた。
 と、手近の行手から女の悲鳴が聞こえて来た。
「へへへ、どいつかやってやがるな。アレーと来りゃこっちのものだ。こいつ見|遁《の》がしてたまるものか。どれどれ」と云うとよろめく足で、声のした方へ走って行った。
 はたして小広い空地の中で、二人の男が一人の女を、中へ取りこめて揉み合っていた。
「やい、こん畜生! 悪い奴だ!」
 源介は濁声《だみごえ》で一喝した。「ところもあろうに江戸の真ん中で、女|悪戯《てんごう》とは何事だ、鯨《くじら》の源介が承知ならねえ! 俺の縄張りを荒らしやがって、いいかげんにしろ、いいかげんにしろ!」
 この気勢に驚いたものか、ワーッというと二人の男は、空地を突っ切って逃げ出した。
「態《ざま》ア見やがれ意気地《いくじ》なしめ! 驚いたと見えて逃げやがった」
 云い云い女に近付いて行った。
 と、倒れていた若い女は、周章《あわ》ててムックリ起き上ったが、源介の胸にすがり付いた。髪の毛が頬に乱れている。帯が緩《ゆる》んで衣裳が崩れ、夜目にも燃え立つ緋《ひ》の蹴出《けだ》しが、白い脛《すね》にまつわっている。年の頃は十八、九、恐怖で顔は蒼褪《あおざ》めていたが、それがまた素晴らしく美しい、お屋敷風の娘であった。
 しばらくは口も利けないと見えて、ワナワナ体を顫わせるばかり
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