むべき恐ろしいペテンから、湧き起こった事でございまして、一口に云うと私の娘が、多四郎という下界の人間にかどわかさ[#「かどわかさ」に傍点]れたのでございます。それのみならず、その人間は私どもが尊敬する宗介天狗のご神体から黄金《こがね》の甲冑《かっちゅう》を奪い取り、私どもをして神の怒りに触れしめたのでございます。そのため私達は山を下り、厭《いや》な下界を流浪し歩き、こんな香具師《やし》のような真似までして、厭な下界人の機嫌を取り、生活《くら》して行かなければならないという、憐れはかない身の上に成り下ってしまったのでございます」
「態《ざま》あ見ろ! いい気味だ!」
 また群集は湧き立った。
「しかし」と杉右衛門は手で抑え、「しかし、憎むべき多四郎の、盛んであった運命も、いよいよ尽きる時が参りました。しかも彼は我が子によって命を断たれるのでございます。因果応報天罰|覿面《てきめん》、恐ろしいかな! 恐ろしいかな! で、復讐をとげると同時に、私どもは下界を棄《す》て、再び魔人の住む所、八ヶ嶽山上へ取って返し、平和と自由の生活を、送るつもりでございます。自然下界の皆様方とも、お別れしなければなりません。そのお別れも数日の間に逼《せま》っているのでございます。アラ嬉しやアラ嬉しや! ついては今日は特別をもって、我ら窩人がいかに勇猛で、そうしていかに野生的であるかを、お眼にかけることに致しましょう。我らにとって熊や猪は、仲のよい友達でございます。その仲のよい友達同士が、相《あい》搏《う》ち相《あい》戯《たわむ》れる光景は必ず馬鹿者の下界人にも、興味あることでございましょう。実に下界人の馬鹿たるや、真に度しがたいものであって……」
「引っ込め、爺《じじい》」
 と見物は、今や総立ちになろうとした。
 と突然杉右衛門は、楽屋に向かって声をかけた。
「さあ出て来い、岩太郎!」
「応!」
 と返辞《いらえ》る声がしたが、忽《たちま》ち一個の壮漢が、颯《さっ》と舞台へ躍り出た。年の頃は四十五、六、腰に毛皮を巻きつけたばかり、後は隆々たる筋肉を、惜し気もなく露出《むきだ》していたが、胸幅広く肩うずたかく、身長《せい》の高さは五尺八寸もあろうか、肌の色は桃色をなし、むしろ少年を想わせる。
「や!」
 と叫ぶと檻《おり》の戸をムズと両手でひっ[#「ひっ」に傍点]掴《つか》んだ。

   江戸
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