警戒した。
ちょうどその日も非番だったので、彼はブラリと家を出ると、根岸を差して歩いて行った。下屋敷まで来て見たが別に変ったこともない。で、その足で浅草へ廻った。
いつも賑やかな浅草は、その日も素晴らしい賑《にぎ》わいで、奥山のあたりは肩摩轂撃《けんまこくげき》、歩きにくいほどであった。
小芝居、手品、見世物、軽業《かるわざ》、――興行物の掛け小屋からは、陽気な鳴り物の音が聞こえ、喝采《かっさい》をする見物人の、拍手の音なども聞こえて来た。
「悪くないな。陽気だな」
など、彼は呟きながら、人波を分けて歩いて行った。
と、一つの掛け小屋が、彼の好奇心を刺戟《しげき》した。「八ヶ嶽の山男」こう看板にあったからで、八ヶ嶽という三文字が、懐しく思われてならなかった。
で彼は木戸を払いつと[#「つと」に傍点]内へはいって行った。大して人気もないと見えて、見物の数は少かった。ちょうど折悪く幕間《まくあい》で、舞台には幕が下ろされていた。で彼は所在なさに見物人達の噂話に、漫然と耳を傾けた。
「……で、なんだ、山男と云っても、妖怪変化じゃないんだな」職人と見えて威勢のいいのが、こう仲間の一人へ云った。
「そいつで俺《おい》らも落胆《がっかり》したやつさ。あたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間じゃねえか。俺ら、山男というからにゃ、頭の髪が足まで垂れ、身長《せい》の高さが八尺もあって、鳴く声|鵺《ぬえ》に似たりという、そういう奴だと思ってたんだが、篦棒《べらぼう》な話さ、ただの人間だあ」
「そうは云ってもまんざら[#「まんざら」に傍点]じゃねえぜ」もう一人の仲間が口を出した。「間口五間の舞台の端から向こうの端へ一足飛び、あの素晴らしい身の軽さは、どうしてどうして人間|業《わざ》じゃねえ」
「あいつにゃ俺《おい》らも喫驚《びっく》りした。こう全然《まるで》猿猴《えてこう》だったからな」
「そう云えば長さ三間もある恐ろしいような蟒《うわばみ》を、細工物のように扱った、あの腕だって大したものさ」
「それに武術も出来ると見えて、棒を上手に使ったがあれだって常人にゃ出来やしねえ」
「だがな、眼があって耳があって鼻があって口があって、どうでもあたりめえ[#「あたりめえ」に傍点]の人間だあ、化物でねえから面白くねえ」
その時チョンチョンと拍子木の音が、幕の背後《うしろ》から聞こえて
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