郎様が、その朝に限って起きて来ない。お附きの者は不審に思い、そっと襖《ふすま》を開けて見た。金一郎様は上半身を夜具の襟から抜け出させ、両手を虚空《こくう》でしっかり握り、眼を白く剥《む》いて死んでいた。
 これは実に内藤家にとって容易ならない打撃であった。世継ぎの若君が変死したとあっては、上《かみ》に対しても面伏《おもぶ》せである。
「何者の所業《しわざ》! どうして殺したのか?」
「突き傷もなければ切り傷もない」
「血一滴こぼれてもいない」
「毒殺らしい徴候もない」
「絞殺らしい証拠もない」
「奇怪な殺人、疑問の死」
 上屋敷でも下屋敷でも人々は不安そうに囁き合った。
 葉之助は自宅の一室で、鼻紙の中の白い粉を、睨むように見詰めていたが、
「若君|弑虐《しいぎゃく》の大秘密は、この粉の中になければならない」こう口の中で呟いた。
「笛のような美妙《びみょう》な音《ね》! 不思議だな、全く不思議だ! 何者の音であったろう?」

         一〇

 信州伊那郡高遠の城下、三の曲輪《くるわ》町の中ほどに、天野北山の邸があったが、ある日、北山とその弟子の、前田一学とが話し合っていた。
「先生、不思議ではございませんか」こう云ったのは一学で、「突き傷も斬り傷もないそうで」
「うん」と北山は腕を組んだが、「毒殺の嫌疑もないのだそうだ」
「心臓|痲痺《まひ》でもないそうで」
「絞殺の疑いもないのだそうだ」
「ではどうして逝去《なくな》られたのでしょう?」
「解らないよ。俺には解らぬ」
「不思議なことでございますな」
「不思議と云えば不思議だが、しかし本来世の中には不思議ということはないのだがな。科学の光で照らしさえしたら、どんなことでも解る筈だ」
「ではどうして金一郎様は、お逝去《なくな》りなされたのでございましょう?」
「さあそれは、今は解らぬ」
「でも只今先生には、科学の光で照らしさえしたら、何んでも解るとおっしゃいましたが……」
「うん、そうとも、そう云ったよ。……金一郎様のお死骸《なきがら》を、親しく見ることが出来たなら、俺の奉ずる蘭医学をもって、きっと死因を確かめて見せる。だが俺は見ていない。変事の起こったのは江戸のお屋敷で、俺はお噂を聞いたまでだ。千里眼なら知らぬこと、江戸の事件は高遠では解らぬ」
「これはごもっともでございますな」一学はテレて苦笑をした。

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