音《ね》が聞こえて来た。いや笛ではなさそうだ。笛のような[#「ような」に傍点]物の音であった。耳を澄ませばそれかと思われ、耳を放せば消えてしまう。そういったような幽かな音で、それが漸次《だんだん》近寄って来た。しかしどこからやって来たのか、またどの辺へ近寄って来たのか、それは知ることが出来なかった。とまれ漸次その音は寝間へ近寄って来るらしい。
金一郎様は睡っていた。お附きの人達も次の部屋で明方の夢をむさぼっていた。で、幽かな笛のような音を耳にした者は一人もなかった。
ではその笛のような不思議な音を、耳にすることの出来たものは、全然一人もなかったのであろうか?
下屋敷の内には一人もなかった。
しかし一人下屋敷の外で、偶然それを聞いたものがあった。
他でもない葉之助であった。
その葉之助は駕籠をつけ[#「つけ」に傍点]てこの根岸までやって来たが紋兵衛の乗っているその駕籠が、森家の下屋敷へはいるのを見ると、しばらく茫然《ぼうぜん》と立っていたが、やがて気が付くと足を返し、主君駿河守の下屋敷の方へ何心なく歩いて行った。
駿河守の下屋敷と森帯刀家の下屋敷との、ちょうど真ん中まで来た時であったが、幽かな幽かな笛のような[#「ような」に傍点]音が、彼の眼の前の地面を横切り、駿河守の下屋敷の方へ、走って行くのを耳にした。
「なんであろう?」と怪しみながら、彼はじっ[#「じっ」に傍点]と耳を澄ませ、その物の音に聞き入った。音は次第に遠ざかって行った。そうして間もなくすっかり消えた。
なんとなく気味悪く思いながら彼は尚しばらく佇《たたず》んでいた。
「お、これは?」と呟くと、彼はツカツカ前へ進み、顔を低く地面へ付けた。と、地面に何物か白く光る物が落ちていた。そうしてそれは白糸のように一筋長く線を引き、帯刀家の下屋敷と、駿河守の下屋敷とを、一直線に繋《つな》いでいた。
「石灰《いしばい》かな?」と呟きながら、指に付けて嗅いで見て、彼はアッと声を上げた。強い臭気が鼻を刺し、脳の奥まで滲《し》み込んだからで、嘔吐《はきけ》を催させるその悪臭は、なんとも云えず不快であった。
何か頷くと葉之助は、懐中《ふところ》から鼻紙を取り出したが指で摘《つま》んで白い粉を、念入りにその中へ摘《つま》み入れた。それから静かに帰路についた。
その夜が明けて朝となった。
いつも早起きの金一
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