市中を歩き廻り、夜となってはじめて帰路についた。
愛宕《あたご》下三丁目、当時世間に持て囃《はや》されていた、蘭医|大槻玄卿《おおつきげんきょう》の屋敷の裏門口まで来た時であったが、駕籠《かご》が一|挺《ちょう》下ろしてあった。と裏門がギーと開いて、中老人が現われた。見れば大鳥井紋兵衛であった。
「これは不思議」と思いながら、葉之助は素早く木蔭に隠れじっと様子を窺《うかが》った。
それとも知らず紋兵衛は、手に小長い箱を持ち、フと[#「フと」に傍点]駕籠の中へはいって行った。と駕籠が宙に浮き、すぐシトシトと歩き出した。
「どんな用があって紋兵衛は、こんな深夜に裏門から蘭医などを訪ねたのであろう」
こう思って来て葉之助は合点の行かない思いがした。そこで彼は駕籠の後をつけ[#「つけ」に傍点]て見ようと決心した。
駕籠は深夜の江戸市中を東へ東へと進んで行った。これを今日の道順で云えば、愛宕町から桜田本郷へ出て内幸町《うちさいわいちょう》から日比谷公園、数寄屋橋から尾張町へ抜けそれをいつまでも東南へ進み、日本橋から東北に取り、須田町から上野公園、とズンズン進んで行ったのであった。さらにそれから紋兵衛の駕籠は根岸の方へ進んで行き、夜も明方と思われる頃、一宇《いちう》の立派な屋敷へ着いた。
「これはいったいどうしたことだ? 帯刀《たてわき》様の下屋敷ではないか」後をつけ[#「つけ」に傍点]て来た葉之助は、驚いて呟いたものである。
九
もう夜は明方ではあったけれど、しかし秋の夜のことである。なかなか明け切りはしなかった。
駿河守の下屋敷は森帯刀家の下屋敷と半町あまり距《へだた》った同じ根岸の稲荷小路《いなりこうじ》にあったが、そこには愛妾のお石の方と、二人のご子息とが住居《すまい》していた。総領の方は金一郎様といい、奥方にお子様がないところから、ゆくゆくは内藤家を継ぐお方で、今年数え年十四歳、武芸の方はそうでもなかったが学問好きのお方であった。
廊下をへだてて裏庭に向かった。善美を尽くしたお寝間には、仄《ほの》かに絹行灯《きぬあんどん》が点《とも》っていた。その光に照らされて、美々しい夜具《よのもの》が見えていたが、その夜具の襟《えり》を洩れて、上品な寝顔の見えるのは金一郎様が睡っておられるのであった。
と、その時、きわめて幽《かす》かな、笛の
前へ
次へ
全184ページ中117ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング