た。
それは逝《ゆ》く春のある日であったが、例の大鳥井紋兵衛から、花見の宴に招かれた。で、彼は出かけて行った。久々で娘のお露とも逢い、心のこもった待遇《もてなし》を受け、欝していた彼の心持ちも頓《とみ》に開くを覚えたりして、愉快に一日を暮らしたが、客もおおかた散ったので彼もそろそろ帰ろうとして、尚夕桜に未練を残し、フラリと一人庭へ出て亭《ちん》の方へ行って見た。
すると誰やら若い女が亭《ちん》の中で泣いていた。
近寄って見ればお露であった。
亡き父の訓《いまし》めで、お露との恋は避けてはいたが、それはただ表面《おもてむき》だけで、彼の内心は昔と変らず彼女恋しさに充ち充ちていた。その彼の眼の前に、その恋人の泣き濡れた姿が、夢ではなく現実《まざまざ》と、他に妨げる者もなく、たった一人で現われたのであった。彼の心が一時に燃え立ち、前後も忘れて走り寄り、お露の肩を抱きしめたのは、当然なことと云わなければならない。
「何が悲しくてお泣きなさる」
こう云う声は顫《ふる》えていた。
お露は何んとも云わなかった。ただじっと抱かれていた。
こういう場合の沈黙ほど力強いものはない。こういう場合の沈黙はそれは実に雄弁なのである。
「お露は俺を愛している。その愛のために泣いている」
葉之助はこう思った。
そうしてそれは本当であった。
一時よく来た葉之助が、ピッタリ姿を見せなくなって以来、お露の恋は悲しみと変った。月日が経つに従って、その悲しみは深くなった。ある種類の女にとっては恋人の姿の見えないことは、その恋をして忘れしめる。少くも恋をして薄からしめる。しかしある種の女にとっては、反対の結果を持ち来たらせる。
お露は不幸にも後者であった。
葉之助の姿が見えなくなってから、本当の恋が始まったのであった。
その恋人が久しぶりで今日姿を現わしたのである。耐え忍んでいた恋しさが――持ち堪《こら》えていた悲しさが、一時に破れたのは無理もない。しかし彼女は処女であった。その恋しさ悲しさを、恋しい男にうちつけ[#「うちつけ」に傍点]に打ち明けることは出来なかった。そこで彼女は人目を避け、亭《ちん》へ泣きに来たのであった。
葉之助の手がしっかりとお露の肩を抱いていた。彼女にとってこの事は全く予期しない幸福であった。それこそ全世界の幸福が一度に来たように思われた。彼女の心から一刹
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