の罪は消えた。父の後を追うことはならぬ。決してお前は死ぬことはならぬ。さて私は死に臨んでお前の身上《みのうえ》にかかっているある秘密の片鱗を示そう。お前の実父は飯田の家中南条右近とはなっているが、しかし誠はそうではない。お前の実の両親は全然別にある筈だ。とは云えそれが何者であるかはこの私さえ知らないのである。ただし南条右近の子として鏡家へ養子に来たについては、来ただけの理由はある。また立派な経路もある。そうしてそれを知っている者は、私の親友、殿の客分|天野北山《あまのほくざん》一人だけである。就《おもむ》いて訊ねるもよいだろう。私は今死を急ぐ、それについて語ることは出来ない。下略」
 これが遺書の大意であった。
 で、ある日葉之助は北山方を訪れた。
 一通り遺書を黙読すると北山は静かに眼をとじた。
「弓之進殿は悪いことを書いた」やがて北山はこう云った。
「それはまた何故でございましょう?」葉之助は訝《いぶか》しそうに訊いた。
「何故と云ってそうではないか。しかし……」
 と云って北山はまたそこで考え込んだが、
「そこがあの仁のよいところかも知れぬ。いつまでもそなたを瞞《だま》して置くことが、あの仁には苦痛だったのであろう」
「私は誰の子でございましょう?」
「それはこれにも書いてある通り、私《わし》にも解っていないのだ。強《し》いて云うなら山の子だ」
「え、山の子とおっしゃいますと?」
「山の子といえば山の子だ、他に別に云いようもない。が、順を追って話すことにしよう。……弓之進殿にはその時代葉之助という子供があった」
「ハハアさようでございますか」
「ところが病気で早逝《そうせい》された。その臨終の時であるが、『代りが来るのだ、代りが来るのだ、次に来る者はさらに偉い』と、こう叫んだということだ」
「不思議な言葉でございますな」
「ある日私と弓之進殿と、鉢伏山へ山遊びに行った、おりから秋の真っ盛りで全山の紅葉は燃え立つばかり、実に立派な眺めであったが、突然一頭の大熊が谷を渡って駈け上って来た。するとその熊のすぐ後から一人の子供が走って来た。信濃の秋は寒いのに腰に毛皮を纏っているばかり他には何んにも着ていない。もっとも足には革足袋《かわたび》を穿《は》き手には山刀を握っていた。その子供と大熊とは素晴らしい勢いで格闘した。そうして子供は熊を仕止めた。仕止めると一緒に気絶し
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