間先さえ見え分かぬ。しかし人々よ気を付けなければならない! その朦朧たる霧の中を雪の白無垢《しろむく》を纏《まと》ったところの殺人鬼が通って行くのだから。
 いやいや決して嘘ではない! 信じられない人間は、翌朝早く家を出て、城下を通って見るがよい。あっちの辻、こっちの往来、向こうの門前、こっちの川岸に袈裟に斬られた男女の死骸が、転がっているのを見ることが出来よう。殺人鬼の通った証拠である。

「どうも今度の曲者ばかりは、葉之助の手にも合わないらしい」
 父、弓之進は呟いた。「ひとつ助太刀をしてやるかな」
 事情を知らない弓之進がこう思うのはもっともである。
 しかしそれだけは止めた方がいい。毛を吹いて傷を求める悲惨な羽目に堕ちるばかりだから!

「もう捨てては置かれない」
 こう呟いた人があった。「やむを得ずば俺が出よう」
 それは松崎清左衛門であった。
 当時天下の大剣豪、立身出世に意がないばかりに、狭い高遠の城下などに跼蹐《きょくせき》してはいるけれど、江戸へ出ても三番とは下がらぬ、東軍流の名人である。――いかさまこの人が乗り出したなら、殺人鬼といえども身動き出来まい。
 しかしはたして出るだろうか?
 その夜も雪が降っていた。
 傘《からかさ》を翳《さ》した一人の武士が静々と町を歩いていた。と、その後から覆面《ふくめん》の武士が、慕うように追って行った。
 角町から三筋通り、辻を曲がって藪小路、さらに花木町緑町、聖天《しょうでん》前を右へ抜け、しばらく行くと坂本町……二人の武士は附かず離れず半刻《はんとき》あまりも歩いて行った。
 その間、覆面の侍は、幾度か刀を抜きかけたが、前を行く武士の体から光物《ひかりもの》でも射すかのように気遅れして果たさなかった。
 尚二人は歩いて行った。
 木屋町の角まで来た時であった。もう一人武士が現われた。羅紗《らしゃ》の合羽《かっぱ》を纏《まと》っている。
 羅紗合羽のその武士は、傘の武士と覆面の武士との、その中間に挟まった。
 それと見て取った覆面の武士は、さりげなくそっちへ寄って行った。
 一道の殺気|迸《ほとばし》ると見えたが、覆面の武士の両腕には早くも刀が握られていた。
「待て!」
 と云う周章《あわ》てた声! 合羽の武士が叫んだのであったが、それを聞くと覆面の武士は、一歩後へ退いた。
「おお、あなたはお父上!」
「お
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