ちへ近寄って来た。見るとそれは黒法師であった。それと知った葉之助は思案せざるを得なかった。
「幻覚かな? 本物かな?」
その間もズンズン黒法師は彼の方へ近寄って来た。やがてまさに擦れ違おうとした。
その時例の声が聞こえて来た。
「永久安穏はあるまいぞよ」
ゾッと葉之助は悪寒を感じ、それと同時に心の中へ不安の念がムラムラと湧いた。
で、刀を引き抜いた。そうして袈裟掛けに斬り伏せた。
陽がカンカン当たっていた。その秋の陽に晒《さ》らされているのは若い女の死骸であった。
「うむ、やっぱり幻覚であったか」
憮然《ぶぜん》として葉之助は呟いたもののしかし後悔はしなかった。気が晴々しくなったからである。
三人目には飛脚《ひきゃく》を斬り四人目には老婆を斬り五人目には武士を斬った。しかも家中の武士であった。
高遠城下は沸き立った。恐怖時代が出現し、人々はすっかり胆を冷やした。
「いったい何者の所業《しわざ》であろう?」
誰も知ることが出来なかった。
家中の武士が隊を組み、夜な夜な城下を見廻ろうという。そういう相談が一決したのは、それから一月の後であった。
で、その夜も夜警隊は粛々《しゅくしゅく》と城下を見廻っていた。
円道寺の辻まで来た時であったが、隊士の一人が「あっ」と叫んだ。素破《すわ》とばかりに振り返って見ると、白井誠三郎が袈裟に斬られ朱に染まって斃《たお》れていた。そうして彼のすぐ背後に鏡葉之助が腕を拱《こまぬ》き黙然として立っていた。
誰がどこから現われ出て、どうして誠三郎を斬ったものか、皆暮《かいく》れ知ることが出来なかった。
こうしてせっかくの夜警隊も解散せざるを得なかった。
心配したのは駿河守である。例によって葉之助を召した。
「さて葉之助、また依頼《たのみ》だ。そちも承知の辻斬り騒ぎ、とんと曲者《くせもの》の目星がつかぬ。ついてはその方市中を見廻り、是非とも曲者を捕えるよう」
「は」と云ったが葉之助は、苦笑せざるを得なかった。
「この事件ばかりは私の手には、ちと合《あ》い兼ねるかと存ぜられます」
「それは何故かな? 何故手に合わぬ」
「別に理由《わけ》とてはございませぬが、ちと相手が強過ぎますようで……」
「いやいやお前なら大丈夫だ」
「しかし、なにとぞ、他のお方へ……」
「ならぬならぬ、そちに限る」
そこで止むを得ず葉之助は、
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