りでございますが、そもそもあなたにはいかなるご身分、いかなるお方でございましょう?」
「私はお前の産まれない前に、この山中にいた者じゃ」
「ははあ、さようでございますか」
「そうしてお前の実の親とは深い関係のあるものじゃ。殊《こと》に死なれた母親とはな」
「……?」
「善、平等、慈悲、平和、私はこれらの鼓吹者《こすいしゃ》じゃ」
「ははあさようでございますか」
「お前の産まれる少し前に私《わし》はこの山を立ち去った。徳の不足を感じたからじゃ。しかし私にはこの山の事がいつも心にかかっていた。で私は四六時中お前の傍《そば》に付いていた。いやいや敢《あえ》てお前ばかりではなくあらゆる不幸な人間にはいつも私《わし》は付いているのだ。ある人のためには涙であり、ある人のためには光である、これが私の本態だ。……で私にはお前の事なら何から何までわかっている」
「そうしてあなたのお名前は?」
「この山では私の事を白法師と呼んでいた」
「白法師様でございますな」
「困った事にはこの浮世には、私と反対な立場にいて私に反対する悪い奴がいる。悪、不平等、呪詛《じゅそ》、無慈悲、こういう物の持ち主で、やはり私と同じように総《あらゆ》る人間に付きまとっている」
「それは何者でございましょう?」
「黒法師とでも云って置こう。また悪玉と云ってもよい。したがって私は善玉で。……三世を貫く因果なるものはこの善玉と悪玉との勝負闘争に他《ほか》ならない。……しかしこれは事新しく私が説くには当たるまい。とは云えお前の身の上に降りかかっている悪因縁はその黒法師の為《な》す業じゃ。そうして少くも現在《いま》のところでは私の力ではどうにもならぬ。時節を待つより仕方がない。……しかもお前は産みの母の呪詛《のろい》の犠牲になっているばかりか、今や新しく種族の犠牲にその身を抛擲《なげう》とうと心掛けている」
「種族? 種族? 種族とは?」
「お前の属する種族の事じゃ」
「私は士族でございます」
「さよう、今はな、今は武士じゃ」
「元から武士でございました」
「そうではない、そうではない」
「では何者でございましょう?」
「それは云えぬ。今は云えぬ。それをお前へ教える者は他でもない黒法師じゃ」
「その黒法師はどこにおりましょう?」
「あらゆる人間に付きまとっている。だからお前にも付きまとっている」
「私の眼には見えませぬ」
前へ
次へ
全184ページ中97ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング