だが、「何んとそうではござらぬかな」
「いえいえそれも違います。私の幼名は右三郎、このように申しましてございます」
「さようさようそんな時代もあった。しかしそれはわずかな間じゃ。しかもそれは仮りの名じゃ。方便に付けた名であったがしかしその事はやがて自然に解るであろう。そうしてそれが解った時から、お前は悲惨《みじめ》な人間となろう。恐ろしい恐ろしい『業《ごう》』の姿がまざまざお前に見えて来よう。世にも不幸な人間とは、他《ほか》でもないお前の事じゃ。お前は産みの母親の呪詛《のろい》の犠牲《いけにえ》になっているのじゃ。そうしてお前は実の父親をどうしても殺さなければならないのじゃ。しかしそれは不可能のことじゃ。子として実の父親を殺す! これは絶対に出来ないことじゃ。出来ないからこそ苦しむのじゃ。そこにお前の『業』がある……お前は不幸な人間じゃ。母の怨みを晴らそうとすればどうでも父親を殺さねばならぬ。子としての道を歩もうとすれば、母親の臨終《いまわ》の妄執《もうしゅう》を未来|永劫《えいごう》解《と》くことが出来ず、浮かばれぬ母親の亡魂をいつまでも地獄へ落として置かねばならぬ」
すると葉之助は笑い出したが、
「これは何をおっしゃることやらとんと[#「とんと」に傍点]私には解りませぬ。私の実の父も母も飯田の城下に健《すこや》かに現在《ただいま》も生活《くら》しておりますものを、臨終《いまわ》の妄執だの亡魂だのと、埒《らち》もないことを仰《おお》せられる。お戯《たわむ》れも事によれ、程度《ほど》を過ごせば無礼ともなる。もはやお黙りくださるよう。私、聞く耳持ちませぬ!」
果ては少しく怒りさえした。
二六
すると神々しいその人は、さも気の毒と云うように、慈愛の眼差しで葉之助を見たが、
「お前の父母は何んと云うな?」
「父は南条右近と申し、信州飯田堀石見守の剣道指南役にござります。母は同藩の重役にて前川頼母の第三女お品と申すものにございます」
「さようさようそうであったな。それは私《わし》も知っておる。しかしそれは仮り親じゃ」
「ナニ、仮り親でございますと? 奇怪な仰せ、その仔細は?」葉之助は気色ばむ。
「いやいやそれは明かされぬ。しかしそのうち自然自然|明瞭《あきらか》になる時節があろう。その時節を待たねばならぬ」
「先刻より様々の仰せ、不思議なことばか
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