で、これより奥には人家はない。阿弥陀ヶ嶽の山骨を上へ上へと登って行く。途中一夜野宿をした。
三日目の昼頃|辿《たど》り着いたのは「鼓《つづみ》ヶ|洞《ほら》」の谿谷《たにあい》で、見ると小屋が建っていた。幾年風雨に晒《さ》らされたものか屋根も板囲いも大半崩れ見る影もなく荒れていたが、この小屋こそは十数年前に窩人の娘山吹と城下の商人《あきゅうど》多四郎とがしばらく住んでいた小屋なのである。二人の間に儲けられた猪太郎と呼ぶ自然児もかつてはここに住んでいた筈だ。それらの人達はどこへ行ったろう? 山吹は既に死んだ筈である。しかし多四郎や猪太郎は今尚|活《い》きている筈だ。
鏡葉之助は小屋の前にやや暫時《しばらく》立っていた。不思議にも彼の心の中へ、何んとも云われない懐かしの情が、油然《ゆうぜん》として湧いて来た。遠い昔に度々聞きそうして中頃忘れ去られた笛の音色が卒然と再び耳の底へ響いて来たような、得《え》も云われない懐かしの情! 思慕の情が湧いて来た。しかしそれは何故だろう? そうだそれは何故だろう? 葉之助にとって「鼓ヶ洞」は何んの関係もないではないか、今度が最初《はじめて》の訪問ではないか。鏡葉之助は鏡葉之助だ。他の何者でもないではないか。
それとも葉之助と「鼓ヶ洞」とは何か関係があるのであろうか?
「これは不思議だ」と葉之助は声に出して呟いた。「遠い遠い遠い昔に、私《わし》は何んだかこの小屋に住んでいたような気持ちがする。……しかしそんなことのありようはない!」忽然、この時絶壁の上から、人の呼び声が聞こえて来た。
「おいでなさい! おいでなさい! おいでなさい!」慈愛に充ちた声である。
二五
「おいでなさい、おいでなさい、おいでなさい!」
慈愛に溢れた呼び声がまた山の上から聞こえて来た。
鏡葉之助はそれを聞くと何んとも云われない懐かしの情が油然《ゆうぜん》と心へ湧き起こった。
「誰かが俺を呼んでいる。行って見よう、行って見よう」
忙しく四辺《あたり》を見廻した。正面に当たって崖がある。崖には道が付いている。その道は山上へ通っている。
で葉之助はその道から山の上へ行くことにした。苔《こけ》に蔽《おお》われ木の葉に埋もれ、歩き悪《にく》い道ではあったけれど、葉之助にとっては苦にならなかった。で、ズンズン登って行く。
こうしてようやく辿
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