《したた》っている。それは灘兵衛の首であった。
 はっ[#「はっ」に傍点]と思ったその瞬間運八はグラグラと眼が眩《まわ》った。それから彼はバッタリ倒れ、そのまま気絶をしたのである。
 数人の百姓に介抱《かいほう》され、彼が気絶から甦生《よみがえ》った時には、その翌日の朝の陽が高く空に昇っていた。
 この運八の失策は忽《たちま》ち城下の評判となり武士と云わず町人と云わずすっかり怖気《おぞけ》を揮《ふる》ってしまい、日の暮れるのを合図にして人々は戸外へ出ようともしない。頓《とみ》に城下は寂《さび》れ返り諏訪家の武威さえ疑われるようになった。
 しかるに若殿頼正は依然として城を抜け出してどこへともなく通って行く。そうして日に夜に衰弱する。祟《たた》り! 祟り! 水狐族の祟り! いったいどうしたらよいのであろう!

 この奇怪な諏訪家の噂は、伊那の内藤家へも聞こえて来た。
 ある日、駿河守正勝は鏡葉之助をお側へ召したが、
「気の毒ながら諏訪家へ参り、妖怪《あやかし》見現わしてはくれまいかな」さも余儀なげに頼んだものである。
「は」と云ったが葉之助は迷惑そうな顔をした。
「諏訪家と当家とは縁辺である。聞き捨て見捨てにもなるまいではないか」
「他に人はござりますまいか?」
「そちに限る。そちに限る。何故と申すに他でもない大鳥井紋兵衛を苦しめた得体の知れなかった妖怪も、一度そちが見舞って以来姿を潜めたというではないか。そちに威徳があればこそだ。私《わし》から頼む、参ってくれ」
「いかなる名義で参りましょうや?」
「当家からの使者としてな。若殿頼正の病気見舞いとしてな」
「やむを得ませぬ、ご諚《じょう》かしこみ、ともかくも参ることに致しましょう」
「首尾よくやれば当家の名誉。諏訪家においても恩に着よう。さていつ頃《ごろ》出立するな?」
「事は急ぐに限ります。明早朝お暇《いとま》を賜《たま》わり、諏訪へ参るでござりましょう」
「供揃い美々しく致すよう」
 ――で、その翌朝、大供を従え、鏡葉之助は発足した。玲瓏《れいろう》たる好風貌、馬上|手綱《たづな》を掻い繰って、草木森々たる峠路を伊那から諏訪へ歩ませて行く。進物台、挿箱《はさみばこ》、大鳥毛、供奴《ともやっこ》、まことに立派な使者振りである。
 中一日を旅で暮らし、その翌日諏訪へ着いたが既《すで》に飛脚《ひきゃく》はやってある。使
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