の夜、手慣れた槍を小脇に抱え、城の奥殿若殿のお部屋の、庭園の中へ忍び込み、様子いかにと窺った。
深夜の風が植え込みに当たり、ザワザワザワザワと音を立て、曇った空には星影もなく、城内の人々寝静まったと見え森閑として物凄い。その時雨戸が音もなく開き人影がひらり[#「ひらり」に傍点]と下り立った。他ならぬ若殿頼正である。
眼に見えぬ糸に曳かれるように、傍目《わきめ》もふらず頼正は、スーッ、スーッと歩いて行く。
すると裏門の潜《くぐ》り戸が、これも人あって開けるかのように、音も立てずスーッと開いた。それを抜けて城外へ出る。犬を吠えず鶏も啼かぬ寥々寂々《りょうりょうせきせき》たる屋敷町を流星のように走り過ぎる。向かう行手は神宮寺であろう。その方角へ走って行く。
「さてこそ」と運八は思いながら、二間あまりの間隔を取りこれも負けずに直走《ひたはし》る。
町を抜けると野良《のら》である。野良の細道を二個の人影が、足音も立てずに走って行く。間もなくこんもり[#「こんもり」に傍点]とした森へ出た。頼正は森の中へ走り込む。で、運八も走り込み、やがてその森を抜けた時には、頼正の姿は見えなかった。
「これはしまった[#「しまった」に傍点]」と呟いた時、一人の老婆が向こうから来た。何やら思案をしていると見えて、首を深く垂れている。
「ご老婆ちょっと物を尋ねる」
運八は切急《せっきゅう》に声を掛けた。「立派な若いお侍がたった[#「たった」に傍点]今この道を行った筈。そなた見掛けはしなかったかな?」
二一
老婆は返辞をしなかった。何やら音を立てて食っている。そうしてクスクス笑っているらしい。
「年寄りの分際《ぶんざい》で無礼な奴! これ返辞を何故しない」
右田運八は怒鳴りながら老婆の肩をムズと掴んだ。しかし老婆は返辞をしない。やはり俯向《うつむ》いて笑っている。そうして何か食っている。クックッと云うのは笑い声であり、ビチャビチャと云うのは物を食う音だ。
運八はいよいよ激昂《げっこう》し肩へ掛けた手へ力を入れた。と、その手がにわかに痲痺《しび》れ不意に老婆が顔を上げた。白金のような白髪を冠った朱盆のような赭《あか》い顔が暗夜の中に浮いて見えたが、口にも鼻にも頬顎にもベッタリ生血が附いている。両手でしっかり抱えているのは半分食いかけた生首である。切り口から血汐が滴
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