して失敗に終わったのである。
爾来《じらい》若殿頼正の心は怏々《おうおう》として楽しまなかった。第二回目を試みようとしても応ずる者がないからである。
ある夜、一人城を出て、湖水の方へ彷徨《さまよ》って行った。それは美しい明月の夜で湖水は銀のように輝いている。ふと、その時、頼正は、女の泣き声を耳にした。
湖水の岸に柳があり、その根方《ねかた》に一人の女が、咽《むせ》ぶがように泣いている。
頼正は静かに近寄って行った。
「見ればうら[#「うら」に傍点]若い娘だのに、何が悲しくて泣いておるぞ?」こう優しく云ったものである。
女はハッと驚いたように、急に根方から立ち上がったが、その女の顔を見ると、今度は頼正が吃驚《びっく》りした。
月の光に化粧された、その女の容貌《きりょう》が、余りにも美しく余りにも気高《けだか》く、あまりにも※[#「藹」の「言」に代えて「月」、第3水準1−91−26]《ろう》たけていたからである。
一九
照りもせず曇りもはてぬ春の夜の朧月夜《おぼろづきよ》にしくものはなし。
敢《あえ》て春の月ばかりではない、四季を通じて月の光は万象《ばんしょう》の姿を美しく見せる。
湖水を背にしてスラリと立ち、顔を両袖に埋めながらすすりなきする乙女の姿は、今、月光に化粧されていよいよ益※[#二の字点、1−2−22]美しく見える。諏訪家の若殿頼正にはそれがあたかも天上から来た霊的の物のように見えるのであった。
「このような深夜にこのような処で若い女子《おんな》がただ一人何が悲しくて泣いておるぞ」
こう云いながら頼正は乙女の側へ寄って行った。
「私《わし》は怪しい者ではない。相等《そうとう》の官位のある者だ。心配するには及ばない。私に事情を話すがよい。そなたはどこから参ったな?」
すると乙女は泣く音《ね》を止め、わずかに袖から顔を上げたが、
「京都《みやこ》の産まれでございます」
「ナニ京都《みやこ》? おおさようか。京都は帝京《ていきょう》、天子|在《いま》す処、この信濃からは遠く離れておる。しかしよもやただ一人で京都から参ったのではあるまいな」
「京都から参ったのでございます」
「うむ、そうしてただ一人でか?」
「誘拐《かどわか》されたのでございます」
「誘拐された? それは気の毒。で、何者に誘拐されたな?」
「ハイ、今から二
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