」「行かねばならぬ? それは何故か?」「他に行く者ござりませぬ」
「いかさま……」と云うと頼正は憤《いきどお》らし気に四方を見た。
「いえ、たとえ他にござりましても、この老人|遮《さえぎ》ってでもお役を勤めねばなりませぬ」
「はて、それはまた何故であろうな?」
「私、指南番にござります。剣道指南番にござります。しかるにこの頃私は老朽、役に立ちませぬ。それにも拘《かかわ》らず大殿様はじめ若殿様におかれましても、昔通りご重用《ちょうよう》くだされ、家中の者もこの老人を疎《おろそ》かに扱おうとは致しませぬ。これ皆君家のご恩であること申し上げるまでもござりませぬ。かかる場合にこそこの老人、ご恩をお返し致さねばいつ酬《むく》うこと出来ましょうや……さて」
と武右衛門はこう云って来てにわかに一膝いざり[#「いざり」に傍点]出たが、「お願いの筋がござります」
一八
「願いの筋とな? 申して見るがよいぞ」――頼正は優しく云ったものである。
「もしも私不幸にして、悪魚の餌食となりました際には、なにとぞ今回のお企て、すぐにお取り止めくださいますよう。これがお願いにござります」
「それは成らぬ」と頼正は気の毒そうに頭を振った。
「そちは今回の企てを何んのためと思っておるな?」
「お好奇心《ものずき》の結果と存じまする」「それが第一の考え違いだ。決して好奇心の結果ではない。諏訪家の恥辱を雪《そそ》ぎたいためよ」「これはこれは不思議なご諚《じょう》、私胸に落ちませぬ」「胸に落ちずば云って聞かせる、武田の家宝と称されおる諏訪法性の冑《かぶと》なるもの元は諏訪家の宝であったが、信玄無道にしてそれを奪い、死後尚自分の死骸に着け、所もあろうに諏訪湖の底へ、石棺に封じて葬《ほうむ》るとは、あくまで諏訪家を恥ずかしめた振る舞い、これは怒るが当然だ! 我《われ》石棺を引き上げると云うも、法性の冑を奪い返し、家宝にしたいに他ならぬ。何んとこれでもこの企て、好奇心《ものずき》の結果と考えるかな」
「いや」と武右衛門は顔を上げた。
「さようなご深慮とも弁《わきま》えず、賢《さか》しらだって[#「しらだって」に傍点]諫言《かんげん》仕《つかまつ》り今さら恥ずかしく存じまする」
「解ってくれたか。それで安心」
「ご免」と云うと武右衛門はスックとばかり立ち上がった。クルクルと帯を解《と》く。
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