と見る間に牡丹の花弁《はなびら》さながらの、血汐がポッカリと浮かんで来た。と、次々に深紅の血汐が、ポカリポカリと水面へ浮かび、その辺一面見ている間に緋毛氈《ひもうせん》でも敷いたように、唐紅《からくれない》と一変した。
 侶船《ともぶね》の武士達はこれを見ると、いずれも蒼褪《あおざ》めて騒ぎ立て、
「ご帰館ご帰館!」と叫ぶ者もある。
「灘兵衛が殺されたに相違ない」「悪魚の餌食となったのであろう」「いや巫女どもの復讐じゃ!」「水狐族めの復讐じゃ!」
「ご帰館ご帰館!」「船を廻せ!」互いに口々に詈《ののし》り合う。
「待て!」とこの時頼正は、凛然《りんぜん》として抑え付けた。「帰館する事|罷《まか》り成らぬ! 誰かある、湖中へ飛び入り灘兵衛の生死を見届けるよう!」
「…………」
 これを聞くと船中の武士ども一度にハッと吐胸《とむね》を突いた。誰も返事をする者がない。互いに顔を見合わせるばかりだ。
「誰かある誰かある、灘兵衛の生死確かめよ!」
 船首《へさき》に立った頼正は地団駄《じだんだ》踏んで叫ぶのであったが、しかし進み出る者はない。
「臆病者め! 卑怯《ひきょう》者め! それほど悪魚が恐ろしいか! それほど湖水が恐ろしいか! 三万石諏訪家の家中には、真の武士は一人もいないな! 止むを得ぬ俺が行く! 俺が湖中へ飛び込んで灘兵衛の生死確かめて遣わす!」
 云うと一緒に頼正は羽織を背後へかなぐり[#「かなぐり」に傍点]捨てた。仰天《ぎょうてん》したのは侍臣である。バラバラと左右に取り付いたが、
「こは何事にござります! 千金の御身《おんみ》にござりまする! こは何事にござります!」
「放せ放せ! 放せと云うに!」
「殿!」とこの時進み出たのは諏訪家剣道指南番宮川武右衛門という老人であった。「殿、私が参りましょう」
「おお武右衛門、そち参るか」頼正は初めて機嫌を直したが、
「しかしそちは既に老年、この難役しとげられるかな?」
「は」と云うと武右衛門は膝の上へ手を置いて慎ましやかに一礼したが、「勝つも負けるも時の運。とは云え相手は妖怪か悪魚。それに安房の海男《あま》とは云え勇力勝れた灘兵衛さえ不覚を取りました恐ろしい相手、十に九つこの老人も不覚を取るでござりましょう」
「不覚を取ると知りながら、尚その方参ると云うか」審《いぶ》かしそうに頼正は訊く。
「はい、行かねばなりませぬ
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