るということだ」
「ちゃあんと浄瑠璃《じょうるり》にも書いてある奴さ」
「二十四孝のご殿かね」
「……こんな殿ごと添い臥《ふ》しの身は姫御前《ひめごぜ》の果報ぞとツンツンテンと、つまりここだ」
「冗談じゃねえ、助からねえな。口三味線とは念入りだ」
「それからお前奥庭になってよ、白狐《しろぎつね》めが業《わざ》をするわさ。明神様の使姫《つかいひめ》は白狐ということになっているんだからね」
一六
「だんだんご座船が近寄って来る。だんだんご座船が近寄って来る」こう云って一人が指差した。
「船首《へさき》に立たれたのが若殿らしい」
「皆紅《みなくれない》の扇をば、手に翳《かざ》してぞ立ち給うかね」
「ほんとに扇を持っておられる」
「オーイオーイと差し招けば……」
「どっちだどっちだ、熊谷《くまがい》かえ? それとも厳島《いつくしま》の清盛かえ」
「どうも不真面目でいけないね。静かに静かに」と一人が云った。
で、人達は口を噤《つぐ》み、湖上を颯々《さっさつ》と進んで来る若殿のご座船を見守った。
今、ご座船は停止した。
諏訪|因幡守《いなばのかみ》忠頼の嫡子、頼正君は二十一歳、冒険|敢為《かんい》の気象《きしょう》を持った前途有望の公達《きんだち》であったが、皆紅の扇を持ち、今|船首《へさき》に突っ立っている。
そのご座船を囲繞《いにょう》して二十隻の小船が漂っていたが、この日|天《てん》晴れ気澄み渡り、鏡のような湖面にはただ一点の曇りさえなく、人を恐れず低く飛ぶ小鳥の、矢のように早い影をさえ、鮮かに映《うつ》して静まり返り、昇って間もない朝の陽が、赤味を加えた黄金色に水に映じて輝く様など、絵よりも美しい景色である。
東の空には八ヶ嶽が連々として聳《そび》え連なり、北には岡谷の小部落が白壁の影を水に落とし、さらに南を振り返って見れば、高島城の石垣が灰色なして水際《みぎわ》に峙《そばだ》ち、諏訪明神の森の姿や、水狐族と呼ばれる巫女の一団が、他人《ひと》を雑えず住んでいる神宮寺村の丘や林などあるいは遠くあるいは近く、山に添ったり水に傾いたり、朝霧の中に隠見《いんけん》して、南から西へ延びている。
しかし頼正は景色などには見とれようとはしなかった。じっと水面を見詰めている、いやそれは水面ではなく、水を透して水の底を、見究《みきわ》めようとしているので
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