ったが、笑い主の姿は見えぬ。しかし笑い声は間断《ひっきり》なしにヒ、ヒ、ヒ、ヒと聞こえて来る。
「不思議な事だ。何んという事だ。どう解釈をしたものだろう? さも心地よいと云ったような、憎い相手の苦しむのがさも嬉しいと云ったような、惨忍《ざんにん》極まる笑い声! 悪意を持った笑い声! ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている。俺も何んだか笑いたくなった。俺の心は誘惑《そそ》られる。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ、まだ笑っている……。俺も笑ってやろう。ヒ、ヒ、ヒ、ヒ……ヒ、ヒ、ヒ、ヒ」
葉之助は笑い出した。不思議な笑いに誘惑《そそ》られて彼もとうとう笑い出した。
と、さらに不思議なことには、姿の見えない笑い声が、漸次《だんだん》こっちへ近寄って来る。部屋の隅と思ったのが、畳の上から聞こえて来る。畳の上と思ったのが、葉之助の膝の辺からさも[#「さも」に傍点]鮮かに聞こえて来る。やがてとうとうその声は彼の腕から聞こえるようになった。
「奇怪千万」と葉之助は、やにわに袂《たもと》を捲り上げた。肉附きのよい白い腕がスベスベと二の腕まで現われたが、そこに上下二十枚の人間の歯形が付いている。これには別に不思議はない。幼年時《ちいさいとき》から葉之助の腕にはこういう歯形が付いていたからで、驚く必要はないのであるが、その歯形が今見れば女の顔と変わっている。眉《まゆ》を釣り上げ眼をいからせ唇を左右に痙攣《けいれん》させ、憤怒《ふんぬ》の形相《ぎょうそう》を現わしている様子が、奇病|人面疽《にんめんそ》さながらである。ヒ、ヒ、ヒという笑い声はその口から来るのであった。
そうして何より気味の悪いことは、人面疽の眼が気絶している紋兵衛の顔に注がれていることで、その眼には憎悪《にくしみ》が満ち充ちている。
余りのことに葉之助は自分の視覚を疑った。
「こんな筈《はず》はない、こんな筈はない!」
叫ぶと一緒に眼を閉じたのは、恐ろしいものを見まいとする本能的の動作でもあろうか。しかしその時断ち切ったように気味の悪い笑い声が消えたので、彼はハッと眼を開けた。
人面疽《にんめんそ》は消えている。後には歯形があるばかりだ。
「さてはやはり幻覚であったか」ホッと溜息をした葉之助は、額の汗を拭ったものの、その恐ろしさ気味悪さは容易の事では忘られそうもない。
その時またも戸の外から嘆願するような大勢の声が咽《むせ》ぶがように
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