老人と、瓜二つではありませんか、似たというより二個の老人は全く同一の人間なのです。
斯うして橋上の老人は呼吸を吐いている老人の口許近く参りましたが、不意に形が小さくなり、一寸ばかりになったかと思うと、身を踴らせて口の中へピョンと飛び込んで了いました。
途端に此方の老人はパクリと口を閉じましたが忽ち橋は消え失せて、驚いて見ている四郎の眼前には老人が草に坐わっているばかり他に変ったことも無く橙果色《だいだいいろ》をした月の面にも別に穴などは開いていません。
と、老人は腹を撫でましたが、
「おい、宗意、居心地は何うだ?」
腹に向かって呼びかけました。
「左様さ、先は平凡だの」腹中の老人が喋舌るのでしょう、斯う云う声が聞えて来ましたが「お前は何うだえ、宗意?」
「俺かな。俺は大浮かれさ。素晴らしい美童を捉まえての」
「フフン」
と、すると腹中の声は、嘲けるように笑ったものです。
「年甲斐も無い何の事だ」
そこで老人と腹の中の声とは暫く黙って居りました。
寂然と四辺は静かです。
と、老人は腹を撫で腹中に向かって云いました。
「酒が飲みたい。酒が飲みたい」
まだ其声の終えない中に老人の鼻の左の穴からピョイと何物か飛び出しました。草の上へちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]坐わる、刺身の載せてある皿でした。すると今度は右の穴から燗徳利が飛び出して来ました。それから両方の鼻の穴から、猪口や箸や様々の物が次々に飛び出して来ましたが、突然カッと口を開くと其処から火を入れた角火鉢が灰も零れず出て来ました。
「何うだ?」と其時腹の中から先刻の声が聞えて来ました「もう大概是れでよかろう?」
「いや未々」
と老人は腹中に向かって叫ぶのです。
「若い別嬪を出してくれ」
「なに別嬪? 贅沢を云うな。そこに美少年がいるじゃ無いか」腹中の声は笑っています。
「女気が無いと寂しくて不可《いかん》」
「よしよし夫れじゃ出してやろう」
腹中の声が終えると同時に老人の口から十七ぐらいの一人の娘が出て来ましたが細《ほっそ》りとした色の白い髪毛の黒い美貌の娘で、四郎を見るとニッコリ笑い、其側へ行って坐わりました。
「並んだ並んだお雛さまが」
老人は二人を眺め乍ら面白そうに手を拍ちましたが、猪口を掴むとつと[#「つと」に傍点]前へ出し、
「さあさあ酒を注いでくれ」
「はい」
と娘は慣れた手つきで徳利を取って酌をします。
「さあさあ娘、立って舞い」
「はい」と云って立ち上り娘は舞をまい出しました。
黄色い澄み切った早春の月。藪蔭で啼いている寝惚鳥。生温かい夜の風。月光を砕き風に乗り翩飜と舞う長い袖。……娘の舞は今様と見え声涼しく唄い出しました。
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春の弥生の暁に
四方の山辺を見渡せば
花盛りかも白雲の
かからぬ峰こそなかりけり
[#ここで字下げ終わり]
繰り返えし繰り返えし三遍まで娘は唄って舞い澄ます。
と見ると老人は眠っています。ゴロリと草の上に横になり軽い鼾さえ立てています。
「おや、お爺さんは寝入っているよ」
娘は急に舞を止め手を叩いて笑い出しました。
「こんな事はめったに無い。出した物[#「出した物」に傍点]をうっちゃって置いて寝入って了うなんて迂濶でしょう」
娘は面白そうに叫んだものです。
四
「ちょいとちょいと可愛らしい坊ちゃん」
斯う云い乍ら急に娘は四郎の側へ参りましたが如何にも早熟《ませ》た物腰で四郎の手を堅く握りました。
「妾《わたし》ね、貴郎を待っていましたのよ。ずっとずっと昔からね。遂々逢えたのね、嬉いわ。……貴郎増田四郎さんでしょう。妾の名を聞かせてあげましょうか。妾ずっとずっとの大昔|猶太《ユダヤ》という遠い国の熱い沙漠にいた頃は聖母マリアと云われていましたの。そうして今も聖母マリアよ。でもね、日本の人達は妾を大変虐めますのよ。だから迂濶々々歩けないの隠れていなけりゃならないの。……だから貴郎にお願いします。妾を自由にして下さい。隠れ場所から出して下さい」
「だって何処に隠れているの?」――四郎は不思議そうに尋ねました。
「それはね、人の胸の中に」
「マリアお姫さん。斯ういう名ね?」
「ええ、そうよ。そういう名よ。〈神の子エス・キリストの母〉斯う云ってもよいのですよ」
「大変長い名なんですね」
「愛。――斯う云ってもよいのですよ。〈人々よ互に愛し合えよ〉妾は日本の人達に斯ういう教えを説いているのですからね」
「そのお爺さんは何う云う人?」
「森宗意軒て云う人です。大変偉い人なのです。そうして妾達親子の者――エス・キリストとマリアとを大変信仰しているのですよ」
「その人、魔法を使うんですね」
「あれは切支丹伴天連の法よ」
「ああいう事|行《や》って見たいなあ」
「ええええ貴郎にも出来ま
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