すとも。もっと不思議なことが出来ますよ。貴郎の美しさは神のようです。その貴郎の美しさは選ばれた人の美しさです。妾はどんなに貴郎のような美しい人を待っていたでしょう。妾は貴郎の美貌を使って妾達の持っている宗教を世間に拡めなければなりません」
斯う云い乍ら其娘は懐中から十字架を取り出しましたが夫れを四郎の首へ掛けました。
と其瞬間から四郎の人物はガラリ一変致しまして近代科学で説明しますれば所謂性格転換とでも云おうか、怜悧聰明並ぶもの無い麒麟児となったのでございます。が併し夫れは後で説くとして、此時眠っていた老人が――即ち森宗意軒が眠りから醒めて起き上がりましたが、
「ややこれは迂濶千万。出し放しとは気がつかなかった」斯う云い乍ら酔眼を拭り、皿や火鉢を取り上るとポンポン口の中へ抛り込みましたが、最後に娘を引き寄せると膝の上へ抱き上げました。と其体が小さくなる。夫れを口中へ抛り込む。そうして其儘行きかけましたが、何気無く四郎を認めますとハッとばかりに大地へ坐り両手を土へ突きました。
「天童降来。天童降来。ははッ、お目見得を仰せつかり忝けのう存じます[#「忝けのう存じます」は底本では「恭けのう存じます」]」斯う云って平伏したのです。
すると、四郎は其瞬間から、自分を天より遣わされたる天使であると思い込みました。
「おお其方は森宗意軒か」言葉迄も全然変り「私は宗旨を拡めるため天から遣わされた童児であるぞ」
「尊い尊い天の童児様! 尊い尊い天の童児様!」
「見ろ、私は義軍を起こし、キリストとマリアとを守るであろう!」
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」宗意軒は斯う云って十字を切りました。
「……われは命のパンなり。われに来たる者は飢えず。我を信ずる者はいつまでも渇くことなからん。……」突然四郎は立ち上がり斯う威厳を以て叫びましたが、是は聖書の文句なのです。しかし四郎は白痴でした。曾て其様な聖書などを読んだことなどは無い筈です。
と、四郎は手を上げて、
「月よ、血の如く赤くなれよ! そのキリストの血に依って!」こう大声で呼びました。忽然、今まで澄んでいた橙色の春の月が、血色に変ったではありませんか。第一の奇蹟の成功です。
「ハライソ、ハライソ、ハライソ、ハライソ!」
と、其間も森宗意軒は讃美の声を絶とうとはせず、繰返えし繰返えし唱えるのでした。
それは誠に神秘壮厳の一幅の絵画と云うべきでした。黒い森。赤い月。仙人のような白髪の翁。そうして総る人界の美を一身に集めた稀有の美童。……ハライソという神寂びた声!
夜はもう半ばを過ぎてしまった。
五
斯ういうことがあってから、天草、島原、長崎などで、「天童降来、教義布衍」こういう言葉が流行し圧迫され又虐げられていた切支丹宗徒に力を付けましたが、翌、寛永十四年に果然世に云う天草一揆が先ず天草に勃発し次いで島原の原ノ城に籠もり幕府に抗するようになりました。
男女合わせて三万余人が籠城したので厶《ござ》います。
大将は即ち天草時貞。四郎のことでございまして、主立った部将の面々は、森宗意軒、葦塚忠右衛門、同じく忠太夫、同じく左内、増田甚兵衛、同じく玄札、大矢野作左衛門、赤星宗伴、千々輪五郎左衛門、駒木根八兵衛。
寄手、主立った大名は、板倉内膳正を初めとし、有馬、鍋島、立花、寺沢、後には知恵伊豆と謳われた松平伊豆守が総帥として江戸からわざわざ下向した程で総勢合わせて十万と称され、城を囲むこと一年になっても尚陥落そうにも見えませんでした。
それは三万の信徒達が四郎を天童と思い込み天帝の擁護ある限り最後に勝つと信じているからです。
で、宗徒軍の強さ加減は例えるに物の無い有様でした。然に不思議の事には、それほど難攻不落であった其原ノ城が翌年の正月他愛も無く陥落たではありませんか。それは次の様な理由からです。
或夜、珍らしく従者も連れず、天草四郎時貞は城内を見廻わって居りました。宿直《とのい》の室の前まで来ますと、「四郎が。……四郎が」と無礼にも呼び捨てにしているものがあるので不思議に思って立ち止まり板戸の隙から覗いて見ますと、森宗意軒と葦塚忠右衛門とが、くつろいだ様子で話しています。四郎四郎と云っているのは宗意軒でありました。
「四郎め、すっかり天童気取りで、悠々寛々と構えているので、城中の兵ども安心して、かく防戦するでは無いか。迷信の力ほど恐ろしいものは無い」
「三月何うかと案じていたのに、一年の余も持ち堪えているとは、農民兵とて馬鹿にならぬ。天童降来して宗徒を護ると斯う信じ切って居ればこそ、望みの無い戦にも勇気を落とさず健気に防戦するであろうぞ」
「それも皆四郎のおかげじゃ」
「いやいやお前の才覚のためじゃ。あの白痴の四郎めをお前の手品で誑《たぶら》かし、天帝
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