屹と手許を睨みました。

     二

 右の掌には依然として棒が立って居るのです。そうして棒の突端は雲に隠れて見えません。
 と、老人は掌の棒を窃と岩の上へ置きましたが棒は岩を基礎にして依然として雲に聳えて居ます。
「さあ、よくよく眼を止めて俺の為る所を見て居るがよい。投げ銭抛り銭は其後の事じゃ」
 老人はニヤニヤ笑い乍ら相変らず大口を叩きましたが、つかつかと棒に近寄りますとひょいと両手を棒に掛けツルツルと一間ばかり登りました。棒は倒れも撓《しば》りもしません。依然として雲表に聳えて居ます。
「さて是からが本芸じゃ。胆を潰して眼を廻わすなよ」
 老人は此言葉を後に残し恰も猿が木を登るように棒を登って行きましたが登るに従い老人の姿は漸時小くなるのでした。軈て雲にでも這入ったのでしょう全く見えなくなりました。
 すると今度は聳えていた棒が雲の中へ手繰られると見えて岩からスッと持ち上がりました。そして非常な速さを以て雲の中へ引込まれました。
 と、突然其雲の中から老人の声が聞えて来ました。
「さあもう今度は金を投げてもよかろう」
 声に応じて見物達は雨のように小銭を投げましたが、不思議なる哉。その小銭は一つとして地上に落るもの無く忽然と又|翩飜《へんぽん》と空に向かって閃めき上り皆雲の中へ這入って了いました。
「何だ、これっぱかりか、鄙吝《しみった》れた奴等だ。が今日の飯代にはなる。ワッハッハッハッ」
 と笑う声がしたが夫れも矢っ張り雲の中からです。
 一人去り二人去り何時の間にか見物人は立ち去りましたが、四郎一人は空を見上げたまま何時迄も立って居りました。不思議で不思議でならないのでしょう。
「小僧!」
 と突然耳許で老人の声が聞えました。
「ああ吃驚した」
 と声を筒抜かせ四郎は四辺《あたり》を見廻わしましたが、老人の姿は見えません。
「此方だ此方だ!」
 と復声がします。遠い所から来るようです。声の来る方に林があり其林の裾の辺をその老人が歩いています。
「お爺さあァん!」
 と声を張り上げ四郎は呼び乍ら足を空にして其方へ走って行きました。
 間も無く林まで行き着きましたが、もう其時は老人は遙かの岡の上に立っていました。四郎は少しも勇気を挫かず岡を目掛けて走って行き、漸く岡へ着いた時には、今度は老人は遙か彼方の小川の岸に彳《たたず》み乍ら四郎を手招いて居りました。
 今度は流石に落胆《がっか》り[#「落胆《がっか》り」は底本では「落胆《がっかり》り」]して四郎は足を止めましたが、併し何うにも名残惜くて引っ返えす気にもなりませんでした。
 其時老人は手を上げて二、三度四郎を招きましたが「小僧!」と復も呼ぶのでした。
 それで復もや元気を出して四郎は其方へ走って行きました。
 併し全く不思議なことには何んなに四郎が走っても何うしても老人へは追い着けません。その癖老人は疲労れた足つきでノロノロ歩いているのです。
 小川を越すと広い野となり野を越すと小高い丘となり丘の彼方は深い林で白い色の見えますのは辛夷の花が咲いているのでしょう。
 やがて夕暮となりました。ケンケンと鳴く雉子の声。ヒューと笛のような鶴の声。塒を求める群鴉の啼音が、水田や木蔭や夕栄の空から物寂く聞えて来て人恋しい時刻となりました。
 尚老人は歩いて行く。で四郎も走って行く。こうして半刻も経った頃には夕陽が消え月が出て四辺は蒼白くなりました。
 その時初めて老人は立止まったのでございます。
 其処は山の裾野でしたが、枯草の上へ胡座を掻き満月を背に負った老人の姿は妖怪《もののけ》のようでございます。
「おい小僧、此処へ坐われ」
 近寄る四郎の姿を見ると斯う老人は云いました。
「貴様の名は何んと云う?」
「増田四郎と申します」
 痴《おろか》ながらも姓名だけは四郎も知って居りましたので、老人の側へ坐わり乍ら斯う無邪気に云ったものです。

     三

「何んの為に此処まで来たな?」
 四郎は黙って笑っています。
「もっと芸当を見たいからか?」
「はい」と四郎は頷きました。
「よしよし夫れでは見せてやろう。いや可愛い美少年じゃ。お前のような美童の前では俺の芸当も逸むというものじゃ」
 老人はこんな事を云い乍ら少し居住居を正しましたが、光清らかの月に向かってホーッと長い息を吐きました。と其呼吸は薄紫の一条の橋となりまして月へ懸ったではありませんか。併し不思議は夫ればかりで無く、円い満月の真中所にポッツリ点が出来ましたが夫れは何うやら穴らしく、そこから一人の老人がスッポリ体を抜け出すと橋の上へ下り立ちました。
 だんだん此方へ遣って参ります。
 見ている中に老人は地上間近く近寄りましたが、よくよく[#「よくよく」に傍点]見れば其の老人は、今尚草の上に胡座を掻き呼吸を吐いている
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