永い春の日も暮に近く、花見の客も帰り急ぎをした。
 中門の袖に身を隠し乍ら、九兵衛は様子を窺っていた。
 と、香具師は荷物を肩にし、チラリ四辺を見廻わしてから、足早に境内を出て行った。
「よし」と云うと小林九兵衛は、中門の袖からヒラリと出た。
 怪しい香具師、妖艶なお部屋、天主閣での唸き声。……どう事件が展開するか?

     五

 香具師はズンズン歩いて行った。
 今日の地理を以て説明すれば、長島町を西へ執り茶屋町、和泉町を北に眺め、景雲橋の方へ進んで行った。景雲橋を渡り明道橋を渡り、尚何処迄も西の方へ進んだ。もう此辺は城下の外で、向うに一塊此方に一塊、百姓家が立っているばかりであった。いつか日が暮れ夜となったが、十五夜の月が真丸に出て、しくもの[#「しくもの」に傍点]ぞ無き朧月、明日は大方雨でもあろうか、暈《かさ》を冠ってはいたけれど、四辺《あたり》は紫陽花色《あじさいいろ》に明るかった。
 と、一軒の家があった。その戸口まで行った時、香具師の姿は不意に消えた。門の戸の開いたらしい音もなかった。と云って裏手へ廻ったようでもない。文字通り忽然消えたのであった。
 後を尾行けて来た小林九兵衛は、おや[#「おや」に傍点]と呟いて足を止めた。どう考えても解らなかった。で兎も角も接近し、其家の様子を見ようとした。変哲もない家であった。ただ普通の百姓家であった。表と裏とに出入口があって、粗末な板戸が立ててあった。二階無しの平屋建で、畳数にして二十畳もあろうか、そんな見当の家であった。屋根に一本の煙突があったが、それとて在来《ありふれ》た煙突らしい。
「さて是から何うしたものだ」九兵衛は鳥渡考えた。「本来俺の役目と云えば、住居を突き止めることだけだ。幸い住居は突き止めた。このまま帰っても可い筈だ。……だが何うも少し飽気《あっけ》ないな」そこで彼は腕を組んだ。
 と、明瞭と耳元で、こう云う声が聞えて来た。「腕を組むにゃァ及ばねえ。遠慮なく這入っておいでなせえ」
「え」と云ったが仰天した。「さては何処かで見ているな」で、グルリと見廻した。併し何処にも人影が無かった。田面が月光に煙っていた。立木が諸所に立っていた。立木の蔭にも人はいない。
「家の中から呼んだにしては、声があんまり近過ぎる」思わず九兵衛は小鬢を掻いた。
「小鬢を掻くにゃァ[#「にゃァ」は底本では「にやァ」と誤
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