一度もこれまで見たことがない。
「どうも不思議だ」とまず主馬が朋輩の一人へ話しかけた。「たしかここには柏屋という染め物店があった筈だのに……」
「さようさ、全く不思議だの」話しかけられた主馬の朋友の南条紋太郎が頷《うなず》きながら、「しかも拙者は今日昼頃たしかにこの前を通った筈じゃ。そしてその時はその柏屋がちゃんと店を開いていたのじゃ。いかに大江戸は素早いと云ってもものの一日と経たないうちに格子造りの染め物店が黒門|厳《いか》めしい武家屋敷となるとはちとどうも受け取れぬ話じゃわい」
「さては狐狸にでもつままれたかの」――もう一人の朋輩荒木内記は呻くような声でこう云った。
「全体どうも本所という土地が化物《ばけもの》には縁の近い土地での。それ本所の七不思議と云って狸囃しにおいてけ[#「おいてけ」に傍点]堀片葉の芦《あし》に天井の毛脛、ええとそれから足洗い屋敷か……どうもここにあるこの屋敷もそのうちの一つではあるまいかの?」
「馬鹿を云わっしゃい、臆病千万」
と主馬は一口に打ち消したが、その実やはり心のうちではそいつ[#「そいつ」に傍点]を考えていたのであった。
「主馬殿、ともかくも帰っ
前へ
次へ
全17ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング