。ごめんなんしょ、ごめんなんしょ」
こういう端《はじ》から多右衛門はグーグー鼾《いびき》をかくのであった。
暑い夏の日もやがて暮れ、涼風《すずかぜ》の吹く夕暮れとなった。それから間もなく夜となった。その夜が次第に更けてゆく。
帛を裂く掛け声
こうして子《ね》の刻も過ぎた時ようやく多右衛門は起き上がった。
「あ、お目覚めでございますかな」
じっとそれまで多右衛門の側《そば》にかしこまっていた[#「かしこまっていた」に傍点]弥右衛門はこうこの時声を掛けた。
「ハア、どうやら目がさめ申した。今、何時《なんどき》でごぜえますな?」
「丑《うし》の刻に間近うございましょうかな」
「へえもうそんなになりますかな。が、ちょうど時刻はようごわす。どれ用意をしようかな」
多右衛門は持って来た風呂敷包みを不器用の手付きで拡げたが、中には桑の木で作ったらしい手垢でよごれた半弓と征矢《そや》が三本入れてあった。
「どっこいしょ」
と掛け声と一緒に彼はヒョロヒョロと立ち上がった。雨戸を開けて中庭の方へそのままスーと消えてしまったのである。
後は森然《しん》と静かであった。弥右衛門はじっと耳を澄まして中庭の様子を聞こうとしたが何の物音も聞こえない。そのうち次第に眠くなった。これは毎晩のことである。劇《はげ》しい睡眠に襲われて家内一同眠っている間《うち》にいろいろの事がおこるのであった。
「眠ってはいけない、眠ってはいけない」
こう弥右衛門は呟《つぶや》きながら傍の火鉢から火箸を抜き取りそれを股へ突き立てた。これで眠気は防ぐことが出来る。
この間も夜は更けて行った。と鳴り出した鐘の音。回向院で撞く鐘でもあろうか。陰々として物寂しい。
とたんに「ヒェーッ」と帛《きぬ》を裂くような凄じい掛け声が掛かったかと思うとピューッと空を抜く矢走りの音に続いて聞こえる弦返《つるがえ》りの響き! しかしそれより驚いたのは、その次に起こった笑い声であった。
「ワッハッハッ」と暢気《のんき》そうに馬鹿にしたようにまず響いたが、「そんな事じゃ駄目だ、駄目だ。それじゃ獣は殺されねえ。ワッハッハッ」とまた笑う。それは多右衛門の声である。
その笑い声が途絶えた刹那またも裂帛《れっぱく》の掛け声がした。矢走りの音、弦返りの響き。
「ワッハッハッハッまだ駄目駄目!」と、多右衛門の声がまた聞こえた
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