ろう? どんな役目をするために、風船は部屋の中へ入り込んだのだろう?
 だがそいつ[#「そいつ」に傍点]は風船が、弁才坊の真上まで、ユラユラユラユラとやって来た時、ハッキリ了解することが出来た。
 風船がパッと二つに割れ、闇の部屋の中へバラバラと、白粉《おしろい》のような粉を蒔き、それが寝ている弁才坊の顔へ、音もなく一面に降りかかるや否や、ムーッと弁才坊呻き声を上げ、両手を延ばすと苦しそうに、胸の辺りを掻き毟ったが、それもほんの僅かな間で、そのまま動かなくなったのである。
 と、どうやら風船には、糸でも付けてあったらしい、そうしてそれが手繰《たぐ》られたらしい、窓から戸外《そと》へ出てしまった。
 後はひっそりと静かである。
 コトンと窓も閉ざされてしまった。
 春の夜風が出たのだろう、花木の揺れる幽かな音が、サラサラサラサラと聞こえてくる。
 弁才坊は寝たままである。弁才坊は微動さえしない。
 だんだん夜が更けて行く。
 とまたコトンと窓が開き、一本子供の腕が出た。続いて子供の顔が出た。風船売の少年である。今まで窓の外に立ち、様子をうかがっていたらしい。
 と、窓から飛び込んで来た。例によって敏捷猿のようである。足音一つ立てようとはしない。窓から射し込む月の光で、部屋中薄蒼く暈《ぼ》かされている。
「さあてどの辺りにあるんだろう? 手っ取り早く探さなけりゃアならねえ」こんな事を呟いている。「隣部屋に寝ている民弥めに、眼を覚まされては大変だ」こんなことも呟いている。
 部屋の一所に書棚がある。で、書棚を探し出した。部屋の一所に机がある。で、机を探し出した。壁に図面が張り付けてある。それを素早く探り出した。部屋の一所に測量機がある。その周囲《まわり》を探し出した。部屋の一所に鑿孔機《せんこうき》がある。それを両手で探り出した。
「ないなあ、ないなあ、どうしたんだろう? どこに隠してあるんだろう? こんなに探しても目つからないなんて、どう考えたって箆棒だよ。もっとも途法もなく大事なもので、それこそうんとこさ[#「うんとこさ」に傍点]値打のあるもので、いろいろの人が狙っているもので、そいつを一つさえ手に入れたら、大金持になれるんだそうだ。だからチョロッカにその辺りに、うっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]あろうとは思われないが、盗みにかけちゃ俺らは天才、その俺様が克明に、こうも手順よく探すのに、目つからないとは箆棒だよ。……何だこいつあ? 人形か?」
 部屋の片隅の卓の上に、二尺あまりの身長《たけ》を持った、人形が一つ置いてある。奈良朝時代の貴女風俗、そういう風俗をした人形である。
 ヒョイと取り上げた風船売の少年、ちょっと小首を傾げたが、そこはやっぱり子供である、小声で節を付けて唄い出した。
「可愛い可愛い人形さん、綺麗な綺麗な人形さん、物を仰有《おっしゃ》い、物を仰有い、貴郎《あなた》に焦れて居りまする。――などと喋舌《しゃべ》ると面白いんだがな。喋舌らないんだからつまらない[#「つまらない」に傍点]よ。もっとも人形が喋舌り出したら、俺ら仰天して逃げ出すだろうが。……が、待てよ」
 と考え込んだ。
「そうだ先刻《さっき》がた弁才坊めが、こんなことを民弥へ云っていたっけ『この人形を大事にしろ』……とすると何か人形に、秘密があるのじゃアあるまいかな? もしも秘密があるとすると、あの秘密に相違ない」ここでまたもや考え込んだ。
「そうだそうだひょっとかするとこの人形のどの辺りかに、あいつが隠してあるのかもしれない。あの素晴らしい秘密の物が」
 で、少年は窓口へ行き、仔細に人形を調べ出した。人形は随分貫目がある。少年の手には持ち重りがする。顔は非常に美しい。眼などまるっきり[#「まるっきり」に傍点]活きているようだ。紅を塗られた口からは、今にも言葉が出そうである。着ている衣裳も高価なもので、唐来もののように思われる。
 だがこれといって変わった所もない、単純な人形に過ぎなかった。
「何だちっとも[#「ちっとも」に傍点]面白くもない、ただのありきたり[#「ありきたり」に傍点]の人形だアね」
 不平らしく呟いた風船売の少年、卓の上へ人形を返そうとした時、驚くべき一つの事件が起こった。



 と云うのは突然人形が、鋭い高い金属性の声で、次のようにハッキリ叫んだのである。
「南蛮寺の謎は胎内の……」
 それだけであった! たった一声!
 よし一声であろうとも、確かに人形は叫んだのである。しかも驚くべき大きな声で。
 風船売の少年が、どんなに吃驚仰天したか、想像に余ると云ってよい。自分が泥棒だということも、忍び込んだ身だということも、何も彼も忘れて声を上げた。
「ワーッ、いけねえ、化物だあ!」
 この結果は悪かった。隣部屋に寝ていた娘の民弥《たみや》が、声に驚いて眼覚めたのである。
「どうなされましたお父様」
 まずこう呼ぶ声が聞こえてきた。つづいて起き上る気勢《けはい》がした。こっちの部屋へ来るらしい。
「いよいよいけねえ、逃げろ逃げろ!」
 人形を卓の上へ抛り出すと、窓へ飛びついた風船売の少年、ヒラリと外へ飛び出した。
 と、それと引違いに、部屋へ現われたのは娘の民弥で、開けてある窓へ眼をつけたが、「まあお父様の不用心なことは。窓をあけたままで寝ておいでなさる。その上寝言など仰有《おっしゃ》って」娘らしく明るく笑ったが、例の道化た調子となった。
「弁才坊さん弁才坊さん、民弥さんを嚇してはいけません。『ワーッ、いけねえ、化物だあ……』などと仰有ってはいけません。さあさあお眼覚めなさりませ。さあさあお話し致しましょう」佇んだまま見下ろしたが、窓から射し込む月光に照らされ、寝ている父の寝姿が、何となく異様に見えたらしい。「おや」と云うと跪坐《ひざまず》いた。
「お父様!」と声をかけ、額へ指をふれて見た。「あっ!」と叫びを上げたのは、父の額が水のように、冷々《ひやひや》と冷《ひ》えていたからである。
「お父様!」と物狂わしく、もう一度叫ぶと両手を延ばし、父の体を抱き上げた。脈もなければ温気もない、全身すでに硬直している。父はこの世の人ではなかった。父は死んでいるのであった。
 これが気弱の娘なら、取り乱したに相違ない。泣き喚いたに相違ない。気絶ぐらいはしただろう。しかし民弥は強かった。眼から涙を流しながらも、しっかり奥歯を噛みしめていた。ブルブル全身を顫わせながらも、気の遠くなるのを我慢した。
 しばらく心をしずめたのである。
「誰が、どうして、何の為に、お父様のお命を絶ったのだろう?」
 ズーッと部屋の中を見廻してみた。
「窓が一杯に開いている。用心深いお父様、開けたままお寝になるはずはない。誰かが開けたに相違ない。その誰かが下手人なのだ。……部屋の中が乱暴に取り散らしてある。どうやら何かを探したらしい。とするとあれ[#「あれ」に傍点]だ! 唐寺の謎!」
 父の殺された原因は、これでどうやら解ってきた。
「お父様が苦心して研究された、唐寺の謎の材料を、盗み取ろうとしたものが、お父様のお命を絶ったのだ」
 そこで死骸を調べ出した。切り傷もなければ突き傷もない。絞め殺された跟跡《あと》もない。
「ああ妾には解《わか》らない」
 ハッキリ解っていることは、可愛がってくれたお父様が、死んでしまったということであった。一人の父! 一人の娘! 母もなければ兄弟もない。親戚《みより》もなければ知己《しりびと》もない。で、お父様の死んだ今は、民弥は文字通り一人ぼっち[#「ぼっち」に傍点]であった。その上|生活《くらし》は貧しかった。明日の食物さえないのである。
 どうするだろう? 可哀そうな民弥?
「お父様!」と叫ぶと新しく涙、澪すと同時に泣き倒れた。
 どんなに民弥が気丈でも、その程度には限りがある。泣き倒れたのは当然と云えよう。父の冷たい額の上へ、熱で燃えるような額を宛て、民弥はいつ迄もいつ迄も泣く。
 どんどん春の夜は更けていく。咽び泣く民弥の声ばかりが、その春の夜へ糸を引く。泣き死んでしまうのではないだろうか? いつ迄もいつ迄もいつ迄も泣く。
 だがこのとき、庭の方から、厳かに呼びかける声がして、それが悲しめる民弥の心を、一瞬の間に慰めた。
「悲しめる者よ、救われなければならない。……民弥よ民弥よ嘆くには及ばぬ。……父の死骸は南蛮寺へ葬れ!」
 それはこういう声であった。
 窓の向こうに人影がある。月光の中に立っている。輪廓だけが朦朧と見える。痩せてはいるが身長《たけ》高く、黒の法衣を纏っている。日本の僧侶の法衣ではない。吉利支丹《きりしたん》僧侶の法衣である。胸に何物か輝いている。銀の十字架が月光を吸い、キラキラ輝いているらしい。非常な老人と思われる。肩に白髪が渦巻いている。胸に白髯《はくぜん》が戦《そよ》いでいる。
「ああ貴郎《あなた》様はオルガンチノ僧正!」
 その神々しさに打たれたのだろう、民弥は思わず合掌したが、ちょうどこの頃京は八条四ツ塚の辺りの一軒の家で、風変わりの二人の男女によって、こんな会話が交わされていた。



「随分遅いな、猿若は」
 こう云ったのは男である。四十格好、大兵肥満、顔はというにかなり凄い。高い段鼻、二重顎、巨大な出眼、酷薄らしい口、荒い頬髯《ほほひげ》を逆立てている。その上額に向こう傷がある。これが人相を険悪に見せる。広袖《ひろそで》を着、胸を寛《くつろ》げ、頬肘を突いて寝ころんでいる。一見|香具師《やし》の親方である。
「そりゃアお前さん遅いはずさ、あれだけの仕事をするんだからね」
 こう云ったのは女である。二十八九か三十か、ざっと[#「ざっと」に傍点]その辺りの年格好、いやらしく仇《あだ》っぽい美人である。柄小さく、痩せぎすである。で顔なども細長い。棘のように険しくて高い鼻、小柄の刃先とでも云いたげな、鋭い光ある切長の眼、唇は薄く病的に赤く、髪を束ねて頸《うなじ》へ落とし、キュッと簪《かんざし》で止めてある。額は狭く富士形である。その顔色に至っては白さを通り越して寧ろ蒼く、これも広袖を纏《まと》っている。一見香具師の女親方、膝を崩してベッタリと、男の前に坐っている。
 男の名は猪右衛門《ししえもん》、そうして女の名は玄女《げんじょ》である。
 夫婦ではなくて、相棒だ。
 家は玄女の家である。
「全く仕事の性質から云えば、かなりむずかしい[#「むずかしい」に傍点]仕事だからな、うまく仕遂《しと》げて来ればいいが、早く結果を聞きたいものさ」こう云ったのは猪右衛門、「まごまごすると夜が明ける。宵の口から出て行って、いまだに帰って来ないなんて、どうもいつも[#「いつも」に傍点]のあいつらしくないよ。やりそこなって恥かしくなって、どこかへ逃げたんじゃアあるまいかな」不安だという様子である。
「そんな心配はご無用さ」
 玄女には自信があるらしい。
「百人二百人|乾児《こぶん》もあるが、度胸からいっても技倆《うで》からいっても、猿若以上の奴はないよ。年といったらやっとこさ[#「やっとこさ」に傍点]十五、それでいて仕事は一人前さ」
「だが相手の大将も、尋常の奴じゃアないんだからな」やっぱり猪右衛門は不安らしい。
「そりゃア云う迄もありゃアしないよ。昔は一国一城の主、しかも西洋の学問に、精通している人間だからね」
「だからよ、猿若やりそこない、とっ[#「とっ」に傍点]捕まりゃアしないかな」
「なあに妾《わたし》から云わせると、相手がそういう偉者《えらもの》だから、かえって猿若成功し、帰って来るだろうと思うのさ」玄女には心配がなさそうである。
「へえおかしいね、何故だろう?」猪右衛門には解《わか》らないらしい。
「だってお前さんそうじゃアないか、相手がそういう偉者だから、なまじっか[#「なまじっか」に傍点]大人《おとな》などを差し向けると、すぐ気取られて用心され、それこそ失敗しようじゃアないか」
「うん、成程、そりゃアそうだ」今度はどうやら猪右衛門にも、胸に落ちたらしい様子であった。
 二人しばらく無言である。
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