字であった。
「成程」と呟いたが右近丸は些少《いささか》驚いた様子であった。「俺の用向きを知っていると見える。俺を嚇そうとしているらしい。これは用心をしなければならない。何者がどこから射たのだろう」四辺《あたり》を見廻したが解《わか》らなかった。たくさん舟が通っている。帆船もあれば漁船もある。商船《あきないぶね》も通っている。だがどの舟から射たものやら、少しも見当が付かなかった。
「さあ、舟遣れ、水夫《かこ》ども漕げ」
そこで小舟は駛《はし》り出した。
その同じ日の夕方のこと――ここは京都四条坊門、南蛮寺が巨然と聳えている。その周囲は四町四方、石垣の中に作られたは、紅毛ぶりの七堂伽藍。金銀を惜まぬ立派なものだ。
夕《ゆうべ》の鐘が鳴っている。讃美歌の合唱が聞こえている。
「アベ マリア! ……アベ マリア!」
美しい神々しい清浄な声!
ボーン! 梵鐘! 神秘的の音!
それらが虚空へ消えて行く。
この南蛮寺の傍らに、こんもり庭木にとりかこまれた、一軒の荒れた屋敷があった。
この頃|京都《みやこ》で評判の高い、多門兵衛《たもんひょうえ》という弁才坊(今日のいわゆる幇間《たいこもち》)と、十八になる娘の民弥《たみや》、二人の住んでいる屋敷である。
今日も二人は縁《えん》に腰かけ、さも仲よく話している。
だが本当に多門兵衛という老人、そんな卑しい弁才坊だろうか?
どうもそうとは思われない。深い智識を貯えたような、聡明で深味のあるその眼付、高貴の血統を暗示するような真直ぐで、正しい高い鼻、錠を下ろしたような緊張《ひきし》まった口、その豊かな垂頬から云っても、卑しい身分とは思われない。民弥の方もそうである。その大量な艶のよい髪、二重瞳の切長の眼、彫刻に見るような端麗な鼻梁、大きくもなければ小さくもない、充分調和のよい受口めいた口、結んでいても開いていても、無邪気な微笑が漂よっている。身長《せい》も高く肉附もよく、高尚な健康美に充たされている。行儀作法を備えているとともに、武術の心得もあるらしく、その「動き」にも無駄がない。
親子であることには疑いない。万事二人はよく似ている。そうして二人ながら貧しいとみえ、粗末な衣裳を着ているが、しかし大変清らかである。
4
「ねえ民弥さん民弥さん、よい天気でございますねえ」
こう云ったのは弁才坊で、自分の娘を呼びかけるのに、民弥さんとさん[#「さん」に傍点]の字を付けている。ひどく言葉が砕けている。
「はいはい本当によいお天気で、春らしい陽気になりました。こんな日にお出かけになりましたら、お貰いもたくさんありましょうに、弁才坊さん弁才坊さん、町へお出かけなさりませ」
民弥は民弥でこんなことを云っている。自分の父親を呼びかけるのに、弁才坊さんと云っている。
だがこいつ[#「こいつ」に傍点]は常時《いつも》なのである。真実の親子でありながら、お友達のような調子なのである。とても二人ながら剽軽《ひょうきん》なのである。
「お貰いに行くのも結構ですが、今日は二人で遊びましょう。色々の花が咲きました、桜に山吹に小手毬《こてまり》草に木瓜《ぼけ》に杏《すもも》に木蘭《もくらん》に、海棠《かいどう》の花も咲きました」こう云ったのは弁才坊。
「ほんとにほんとにこのお庭は、お花で一杯でございます。往来さえ見えない程で」こう云ったのは民弥である。
「今日はお花見を致しましょう。お酒を一口戴きたいもので」
「お合憎様でございます。一合の酒さえございません」民弥は笑って相手にしない。
「ははあ、左様で、ではお茶でも」
「お茶もお合憎様でございます。久しく切れて居りますので」
「おやおやそいつは困りました。では白湯《さゆ》なりと戴きましょう」
「差し上げたくはございますが、お湯を沸かす焚物《たきもの》がございません」民弥はやっぱり相手にしない。
これにはどうやら弁才坊も少しばかり吃驚《びっくり》したらしい。
「ははあ焚物もございませんので」
「明日の朝いただく御飯さえ、実はないのでございます」
「随分貧乏でございますな」
「今に始まりは致しません。昔から貧乏でございます」
「これはいかにも御尤《ごもっとも》、昔から貧乏でございます」こうは云ったが弁才坊は意味ありそうに云い続けた。「だが大丈夫でございますよ。苦の後には楽が来る、明日《あした》にでもなると百万両が、ころげ込むかも知れません」
「はいはい左様でございますとも。百万両は愚かのこと、大名になれるかも知れません」
「そうなった日の暁《あかつき》には、この弁才坊城を築き、兵を財《たくわ》え武器を調《ととの》え威張って威張って威張ります」
「そうなった日の暁には、この民弥さんも輿《こし》に乗り、多くの侍女を従えて、都|大路《おおじ》を打たせます」
「どうやらそういう栄華の日が、すぐ間近く迫ったようで」
「結構なことでございます」
「これまでは苦労を致しました」
「ほんとにお気の毒でございました」
「いえいえ私《わたし》より民弥さんの方が、一層お気の毒でございました」
「何の何のどう致しまして、弁才坊様あなたの方が、一層ご苦労なさいました」
「苦は楽の種、苦は楽の種、アッハハハ楽になったら、この三年間の苦しみが、笑い話になりましょう」
「そうしたいものでございます」
「きっとなります。きっとなります」
「お父様!」とここで娘の民弥は俄《にわか》に調子を改めたが、四辺《あたり》を憚った鋭い声で「遂げられたのでございましょうか? 年月重ねられたご研究が?」
「うむ」とこれも弁才坊、がぜん態度を一変したが「民弥、遂げたぞ、ようやくのことで!」
「で、その旨信長公へ?」
「うむ、昨日《きのう》云ってやった!」
「では追っつけお使者が参り?」
「そうだ、この私《わし》の研究材料をお買い上げ下さるに相違ない」
「ああそうなったら私達は……」
「昔の身分に返《かえ》れるのだ」
ここで親子は沈黙し、その眼と眼とを見合せた。
まだ梵鐘が鳴っている。
讃美歌の声も聞こえている。
庭の桜が夕風に連れ、ホロホロホロホロと散ってくる。
ヌッと立った弁才坊は、「民弥!」とじっと[#「じっと」に傍点]娘を見た。「秘密の一端明かせてやろう、部屋へおいで、来るがよい」
縁《えん》を上って行く後から、従《つ》いて行ったのは娘の民弥で、二人家の内へ隠《かく》れた時、老桜の陰からスルスルと忍び出た一人の人物があった。
5
人物と云っても少年である。年の頃は、十四五歳、刳袴《くくりばかま》に袖無を着、手に永々と糸を付けた幾個《いくつ》かの風船を持っている。狡猾らしい顔付である。だが動作は敏捷である。辻に立って風船を売り、生活《くらし》を立てている少年|商人《あきゅうど》、だがそれにしても何のために、こっそり弁才坊の屋敷などへ、人目を憚り忍び込んだのだろう?
「うむ、あそこに窓がある、あそこから様子を見てやろう」
呟《つぶや》くと木立を縫いながら、屋敷の横手に付いている小窓の下へ走り寄った。人差指へ唾を付け、窓の障子へ押え付けたのは、小穴を開ける為なのだろう。窓が高いので覗きにくい。
「困ったなア困ったなア」
こんなことを云い出した。
「よし」と云うと一|刎《は》ね刎ね、木間へスポリと飛び込んだかと思うと、苔蒸した石を抱えて来た。
「こいつを足場にしてやろう」
そっと窓下へ石を置いたが、やがてその上へヒョイと乗ると、背延びをして小穴から覗き出した。
「ワーッ、有難《ありがて》え、よく見えらあ」
それから熱心に覗き出した。
「ワーッ、姐ごめ、嘘は云わなかった。ほんとにほんとに弁才坊め、いろいろの機械を持ってやがる……ははああいつが設計図、ははああいつが測量機、ははああいつが鑿孔機《せんこうき》、うんとこさ[#「うんとこさ」に傍点]書籍《ほん》も持っていやがる……オヤオヤオヤ人形もあらあ、やアいい加減|爺《じじい》の癖に、あんな人形をいじって[#「いじって」に傍点]いやがる。待てよ待てよ、そうじゃアねえ。ありゃア娘の人形なんだろう。だって娘だっていい年じゃアないか。そうそう確か十八のはずだ。ええとそうして民弥と云ったっけ……おかしいなあ、おかしいや、弁才坊と民弥とが、人形を挿《はさ》んで話し込んでいるぜ。民弥め別嬪だなあ。家の姐ごよりずっと[#「ずっと」に傍点]綺麗だ。俺《おい》らの姉さんならいいんだけれど、そうでないんだからつまんねえ[#「つまんねえ」に傍点]。俺らの嫁さんにならねえかな。あっちの方が年上だから、どうもこいつ[#「こいつ」に傍点]も駄目らしい……え、何だって? 何か云ってるぜ! ……「この人形を大事にしろ」……ウフ、何でえ面白くもねえ、つまらねえ事を云っていやがる……え何だって何か云ってるぜ! ……『秘密の鍵は第三の壁』……何だか些少《ちっと》も解《わか》らねえ……何でもいいや、一切合切、みんな姐ごに話してやろう」
こんなことを口の中で呟きながら、風船売の少年は、障子の穴から覗いている。
日がだんだん暮れてきた。南蛮寺の鐘も今は止み、合唱の声も止んでしまった。
庭木の陰が次第に濃くなり、夜が間近く迫ってきた。
と、突然家の内から、「これ、誰だ。覗いているのは!」弁才坊の声がした。
「ワッ、いけねえ、目つかっちゃった」
石から飛び下りた風船売の少年、庭木の陰へ隠れたが、その素早さというものは、人間よりも猿に近い。
と内から窓があき、顔を出したは弁才坊で、グルグルと庭を見廻したが、神経質の眼付、ムッと結んだ口、道化た俤など少しもない。眼を付けたは窓下の石!
「石を足場にして覗いたな、さして高くもない窓だのに……とすると子供に相違ない。が、子供でも油断は出来ない……民弥々々!」と声をかけた。
「はい」と民弥が顔を出した。「近所の子供でございましょう。無邪気に覗いたのでございましょう」
そういう民弥こそ無邪気であった。
「さあそいつ[#「そいつ」に傍点]が解らない」いぜん弁才坊は不安らしい。「私の探った秘密というものは、一通りならぬものだからな。いろいろの人間が狙っていよう」
「申す迄もございません」――だが民弥は苦にもしないらしい。
「で、ちょっとの油断も出来ない」
「物騒な浮世でございますから」だが民弥はやっぱり無邪気だ。
「全くどうも物騒だよ、北山辺りにも変な人間がいるし、洛中にも変な人間がいる」
「そうして諸方の国々では、今日も戦争、明日も戦争、恐ろしいことでございます」これだけは民弥も真剣であった。
「そればかりではない紅毛人までが、ユサユサ日本へやって来て、南蛮寺などを建立してしまった」弁才坊はひどく不満そうである。
「でもお父様」と娘の民弥は、どうしたものか微妙に笑った。
「その南蛮寺が建ったればこそ、お父様には今回のご研究が出来たのではございませんか」
「それはそうだよ」と云ったものの、やはり弁才坊は不満らしい。だがにわかに態度を変えた。
「どうやら宵も過ぎたらしい。さあさあ民弥さん寝るとしよう」剽軽の態度に帰ったのである。
「かしこまりました、弁才坊さん、おねんねすることに致しましょう」
二人窓から引っ込んだが、つづいて雨戸が閉ざされた。後はシーンと静かである。
とガサガサと庭木が揺れ、現われたのは先刻《さっき》の少年、「これからが俺の本役《ほんやく》さ」とまたもや窓へ近よったが、手を延ばすと窓を開け、そこから一つの風船を、家内《やない》へ飛ばせたものである。
6
その風船はユラユラと部屋の中へ入って行った。
さてその部屋の中であるが、弁才坊ただ一人、床を延べて伏せっていた。
うとうと眠っているらしい。部屋の中には燈火《ともしび》がない。で、闇ばかりが領している。その闇の部屋をユラユラと、白い風船が漂っている。スーッと天井まで上ったかと思うと、スーッと下へ下って来る。妖怪《もののけ》のようにも思われるし、肉体から脱け出た魂のようでもある。
しかし少年は何のために、そんな風船を飛ばせたのだ
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