」」は底本では「妾の好きなお侍さん」。」]
それから巫女は意味ありげに笑った。
「さあお遣りよ、急いで輿を!」
松火で森を振り照らし、スタスタと奥へ行ってしまった。
3
信長の居城|安土《あづち》の城、そこから乗り出した小舟がある。
春三月、桜花《おうか》の候、琵琶の湖水静かである。
乗っているのは信長の寵臣、森右近丸《もりうこんまる》と云って二十一歳、秀でた眉、鋭い眼、それでいて非常に愛嬌がある。さぞ横顔がよいだろう、そう思われるような高い鼻、いわゆる皓歯《こうし》それを蔽て、軽く結ばれている唇は、紅を注したように艶がよい。笑うと左右にえくぼ[#「えくぼ」に傍点]が出来る。色が白くて痩せぎすで、婦人を想わせるような姿勢ではあるが、武道鍛錬だということは、ガッシリ据わった腰つきや、物を見る眼の眼付で解《わか》る。だが動作は軽快で、物の云い方など率直で明るい。どこに一点の厭味もない。まずは武勇にして典雅なる、理想的|若武士《わかざむらい》ということが出来よう。
かの有名な森|蘭丸《らんまる》。その蘭丸の従兄弟《いとこ》であり、そうして過ぐる夜衣笠山まで、巫女を追って行った若武士なのである。信長の大切の命を受け、京へ急《いそ》いでいるところであった。
天正七年春の午前、湖水の水が膨らんでいる。水藻の花が咲いている。水鳥が元気よく泳いでいる。舟が通ると左右へ逃げる。だがすぐ仲よく一緒になる。よい天気だ、日本晴れだ、機嫌よく日光が射している。
舟はズンズン駛《はし》って行く。軽舟《けいしゅう》行程半日にして、大津の宿まで行けるのである。
矢走《やばせ》が見える、三井寺が見える、もう大津へはすぐである。
とその時事件が起こった。どこからともなく一本の征矢《そや》が、ヒュ――ッと飛んで来たのである。舟の船首《へさき》へ突っ立った。
「あっ」と仰天する水夫《かこ》や従者、それを制した右近丸は、スルスルと近寄って眺めたが、
「ほほうこいつは矢文だわい」
左様、それは矢文であった。矢羽根から二三寸下ったところに、畳んだ紙が巻き付けてある。
矢を引き抜いた右近丸はクルクルと紙を解きほぐすと、スルスルと開いて見た。
「南蛮寺の謎手に入れんとする者信長公|一人《いちにん》にては候《そうろう》まじ、我等といえども虎視耽々、尚その他にも数多く候」
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