来た。弓之助でなくて喜介であった。
「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」
 喜介の報告《しらせ》はこうであった。お色は一時に気抜けした。じっ[#「じっ」に傍点]と首をうな[#「うな」に傍点]垂れた。


    両国橋の乞食の群

 女将《おかみ》が声を掛けたのに、ろくろく返事をしようともせず、お色はフラリと茶屋を出た。同じ道を帰って行った。
「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。
「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで溜《ため》だわ……!」隅田川の風景も、もう彼女には他人であった。「きっと河は深いんだろうねえ」ゾッとするようなことを考えた。「身を投げたらどうだろう?」死んでからのことが考えられた。「あの人泣いてくれるかしら?」決して泣くまいと決めてしまった。「では随分つまらないわねえ」手頼《たよ》りなくてならなかった。
「ドボーンと妾《わたし》が身を投げたら、誰か助けてくれるかしら。そうよ今は昼だから。助けてくれたその人が、あの方だったらいいのにねえ」
 ダラリと袖を欄干へ垂らし、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]河面《かわも》を眺めやった。やはり都鳥が浮かんでいた。やはり舟がとおっていた。皆々他人であった。急に眼頭《めがしら》がむず[#「むず」に傍点]痒《がゆ》くなった。眼尻がにわかに熱を持って来た。ボッと両の眼が霞んで来た。瞳へ紗《しゃ》でも張られたようであった。家々の形がひん[#「ひん」に傍点]曲がって見えた。見える物がみんな遠く見えた。そうしてみんな[#「みんな」に傍点][#「そうしてみんな[#「みんな」に傍点]」は底本では「そうしてみん[#「てみん」に傍点]な」]濡れて見えた。
 涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。
 体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に渦《ま》き込まれた。
 お色の倚《よ》っていた欄干から、二間ほど離れた一所《ひとところ》に、五、六人の乞食《こじき》が集《たか》っていた。往来の人の袖に縋り、憐愍《あわれみ》を乞う輩《やから》であった。
 一個《ひとつ》の手ごろの四角い石と、十個の小さい円石とで、一人の乞食が変なことをしていた。
 やや離れた欄干に倚り、それを見ている老武士があった。編笠で顔を隠しているので何者であるかは解らなかった。
 乞食は角石を右手へ置いた。それから小石を三個だけ、その左手へタラタラと並べた。
 老武士が口の中で呟いた。
「銅銭会茶椀陣、その変格の石礫陣《せきれきじん》。……うむ、今のは争闘陣だ」
 乞食はバラバラと石を崩した。角石をまたも右手へ置き、その左手へ二つの小石を、少し斜めにピッタリと据えた。それから指で二の字を描いた。
 と、老武士は口の中でいった。「雙龍《そうりゅう》玉を争うの陣だ」
 すると塊《かた》まっていた数人の乞食の、その一人が手を延ばし、ツ[#「ツ」に傍点]と一つの小石を取った。それを唇へ持って行った。それから以前《もと》の場所へ置いた。他の乞食が同じことをした。次々に小石を取り上げた。それを唇へ持って行った。それから以前《まえ》の場所へ置いた。「茶を喫するという意味なのだ」老武士は口の中で呟いた。「雙龍玉を争うにより、その争闘に加わるよう。よろしい[#「よろしい」に傍点]といって承知した意味だ。ふむ、何かやると見える」
 乞食は手早く石を崩した。小石ばかりを三個並べた。その後へ二つ円を描いた。
「ははあ同勢三百人か」口の中で老武士はいった。
 乞食はまたも石を崩した。角石を取って右手へ置いた。一個の小石を左手へ置いた。その左手へ四個の小石を、四角形に置き並べた。そうして四角形の石の周囲へ、指で四角の線を引いた。
 と、老武士は呟いた。「これ患難|相扶陣《そうふじん》だ。今度の争闘は患難だによって、相扶《あいたす》けよという意味だ」
 乞食はまたも石を崩した。それから再び石を並べた。三個の小石を左手に並べ、三個の小石を右手へ並べた。中央へ二個の小石を置いた。
「これすなわち梅花陣だ」


    周易の名家加藤左伝次

 乞食は左右の手を延ばし、左右六個の石を取った。
「ははあ、花だけ残したな」
 急に乞食は二個の小石へ、さらに一個の石を加えた。その左右に三個ずつ六個の小石を置き並べた。
「これはほかならぬ河川陣《かせんじん》だ」
 乞食はまたもや石を崩した。十個の小石を一列に並べた。その中央へ角石を置いた。
「これはほかならぬ閂陣。戸という文字を暗示したものだ。三つを合わせると花川戸。ははあこれは地名だな」
 乞食はまたも石を崩した。小石を五個一列に並べた。そうして指で「刻」の字を書いた。
「うん、これは五|更《こう》という意味だ」老武士は口の中で呟いた。
 乞食の石芸はこれで終った。人の往来が劇《はげ》しくなった。乞食達は袖へ縋り出した。いつの間にか皆見えなくなった。
 老武士は悠然と欄干を離れた。橋の袂に駕籠屋がいた。
「駕籠屋」と老武士はさし[#「さし」に傍点]招いた。「数寄屋橋《すきやばし》までやってくれ。うむ、行く先は北町奉行所」
 すぐに駕籠は走り出した。

 お色は俯向いて歩いていた。顔を上げると屋敷があった。門に看板が上がっていた。地泰天《じたいてん》の卦面《けめん》を上部に描き、周易活断、績善堂、加藤左伝次と記されてあった。
 当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断であった。百発百中と称されていた。
 お色は思わず足を止めた。
「あのお方のお心持ち、ちょっと占って貰おうかしら?」
 で門内へはいっていった。すぐ溜り場へ通された。五、六人の人が待っていた。一人一人奥へ呼び込まれた。嬉しそうな顔、悲しそうな顔、いろいろの顔をして戻って来た。やがてお色の番が来た。お色は奥の部屋へ行った。部屋の正面に床の間があった。脇床の違い棚に積まれてあるのは、帙入《ちつにゅう》の古書や巻軸であった。白熊の毛皮が敷いてあった。その上に端然と坐っているのは、三十四、五の人物であった。総髪の裾が両肩の上に、ゆるやか[#「ゆるやか」に傍点]に波を打っていた。その顔色は陶器のようで、ひどく冷たくて蒼白かった。眼の形は鮠《はや》のようであった。眼尻が長く切れていた。耳髱《みみたぶ》へまで届きそうであった。その左の目の瞳に近く、ポッツリ星がはいっていた。それが変に気味悪かった。黒塗りの見台が置いてあった。算木《さんぎ》、筮竹《ぜいちく》が載せてあった。その人物が左伝次であった。茶無地の被布を纏っていた。
 お色は何がなしにゾッとした。凄気が逼るような気持ちがした。遠く離れて膝を突いた。それからうやうやしく辞儀をした。
 と、左伝次は頤《あご》をしゃく[#「しゃく」に傍点]った。
「恋だな、お娘ご中《あた》ったろう?」
「えっ」とお色は度胆を抜かれた。
「もっとお進み、見てあげよう」左伝次の声は乾いていた。枯れ葉が風に鳴るようであった。やはり変に不気味であった。「年は幾歳《いくつ》だ、男の年は?」
「は、はい、年は二十三で」
「妻はあるかな、その男には?」
「いえ、奥様はございません」
「ナニ、奥様? うむそうか。相当家柄の侍だな?」
「旗本衆のご次男様で」つい釣り込まれていってしまった。
「で、何を見るのかな?」
「はい、そのお方のお心持ちが……」赭くなっていい淀んだ。
「変わったか変わらないか見るのであろう?」
「は、はい、さようでございます」
「よし」というと筮竹を握った。「よいか、見る人と見られる人との精神が合盟一致した時、易というものは的中する。で、お前さんも一生懸命におなり」
 お色は形を改めた。
「ヤ――ッ」と鋭い掛け声が、左伝次の口から迸《ほとばし》り出た。「ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ、ヤーッ」ドン底へしみるような声であった。左伝次の額からは汗が流れた。ザラザラザラザラと筮竹が鳴った。
 お色は心が恍惚《うっとり》となった。これまでも易は見て貰ったが、こんな凄《すさま》じい立てかたは、一度も経験したことがなかった。「さすがは名題の加藤先生。ああこの易はきっと中る」お色は突嗟に信じてしまった。
 左伝次は筮竹を額へあてた。パチパチパチパチパチ。パチパチパチパチ。力をこめて刎《は》ね上げた。と、算木へ手を掛けた。カタカタと算木が返された。ホーッと一つ呼吸《いき》をすると、ザラザラと筮竹を筒の中へ入れた。それから算木を睨み付けた。
 お色は思わず呼吸を呑んだ。


    死中ただ一活路

「おお、お娘ご、これはいけない」気の毒そうに左伝次はいった。
「あのそれではそのお方の、お心持ちが変わったので?」お色はブルブルと顫《ふる》え出した。
「いや心は変わっていない。……もっと大変なことがある」
「え、そうして大変とは?」
「死地にはいっておられるのだ」
「まあ」と叫ぶとフラフラと立ったが、すぐベッタリと坐ってしまった。
「では、お命があぶないので?」
「うむ」と左伝次は顔を曇らせ、「しかもそれが冤罪《えんざい》でな」
「どこにおられるのでございましょう?」
「さあ、そこまでは解らない」左伝次はお色を刺すように見た。「だがただ一つ道がある。そうだその人を救う道がな」
「どうぞお聞かせくださいまし」お色はズルズルと膝を進めた。「先生お願いでございます」
「医は肉体の病《やまい》を癒《なお》し、易は精神の病を癒す。いわばどっち[#「どっち」に傍点]も仁術だ。わし[#「わし」に傍点]の力で出来るだけの事は骨を折ってしてあげよう。その人を救う唯一の道とは、その人と一番親しい人がさらに他の人に正直に事情を話して救いを乞う時、事情を話されたその人が、事件を解決して救うというのだ。易の面《おもて》に現われている。詳しく分解して話してもよいが専門の言葉で説明しても、お前さんには解るまい。ところでその人と親しい人とは、今の場合お前さんだ。さらに他の人とは誰のことか。これはどうやらわし[#「わし」に傍点]らしい。そこでお前さんが正直に今度の事情をわし[#「わし」に傍点]に話したら、あるいはこのわし[#「わし」に傍点]がその人を、救い出すことが出来るかも知れない。もちろん確実《たしか》とはいわれないがな」
「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あの妾《わたし》は浅草の、銀杏《いちょう》茶屋のお色でございます」
 ――それから田沼に懇望され、その妾《めかけ》になろうとしたこと、可愛い恋人と切れたこと、妾《めかけ》になることが止めになったこと、今日呼び出しを掛けたところ、恋人が昨日屋敷を出たきり、今に帰って来ないこと――一切合切打ち明けた。
 左伝次は黙って聞いていたが、その顔には曖昧な、混乱したものが現われた。
「その人の名は何んというな?」やがて左伝次はこう訊いた。
「白旗弓之助様と申します」
「うむ、お旗本で白旗か……。小左衛門殿のご縁辺かな?」
「そのお方のご次男様で」
「では確か北お町奉行、曲淵様とはご親戚のはずだが」
「はい叔父甥の仲だそうで」
 左伝次はじっ[#「じっ」に傍点]と考え込んだ。「昨日から行方が不明なのだな?」
「はいさようでございます」
 ここで左伝次はまた考えた。
「弓之助殿のご様子は? つまり容貌風采だな」
「色白の細面《ほそおもて》、中肉|中身長《ちゅうぜい》でございます」
「うむ、そうして腰の物は?」
「あの細身の蝋鞘の大小……」
「うむ、そうしてご定紋は?」
「はい丸に蔦《つた》の葉で」
 すると左伝次はヒョイと立った。
「お色殿ちょっとこっち[#「こっち」に傍点]へおいで
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