いよいよ此奴《こやつ》は逃がせねえ。うむそうだ踏み込んでやろう。有名《なうて》の悪漢《わるもの》であろうとも、たか[#「たか」に傍点]の知れた盗賊だ。掛かって来たら切って捨て、女勘助一人だけでも、是非とも手擒《てどり》にしてやろう」
彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている塊《かたまり》を、吐き出したいという願いもあった。どぎっ[#「どぎっ」に傍点]た事をやってみたい。こういう望みも持っていた。
彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって窺《うかが》った。眼の下に小広い前庭《にわ》があり、植え込みが飛び飛びに出来ていた。その奥の方に主屋があった。どこにも人影は見えなかった。で弓之助は飛び下りた。植え込みの蔭へ身を隠し、さらに様子を窺った。やはりさらに人気《ひとけ》はなかった。玄関の方へ寄って行った。戸の合わせ目へ耳をあて、家内の様子を窺った。無住の寺のように寂しかった。試みに片戸を引いてみた。意外にも、スルリと横へ開いた。「これは」と弓之助は吃驚《びっくり》した。「いやこれはありそうなことだ。泥棒の巣窟《すみか》へ泥棒が忍び込む気遣いはないからな、それで用心しないのだろう」彼は中へはいって行った。玄関の間は六畳らしく燈火《ともしび》がないので暗かった。隣室と仕切った襖があった。その襖へ体を付けた。それからソロソロと引き開けた。その部屋もやはり暗かった。十畳あまりの部屋らしかった。隣室と仕切った襖があった。その襖をソロソロと開けた。燈火《ともしび》がなくて暗かった。全体が手広い屋敷らしかった。しかも人影は皆無であった。どの部屋にも燈火がなかった。一つの部屋の障子を開けた。そこに一筋の廻廊があった。その突きあたりに別軒《べつむね》[#ルビの「べつむね」は底本では「べねむね」]があった。離れ座敷に相違ない。廻廊伝いにそっちへ行った。雨戸がピッタリ締まっていた。その雨戸をそっと開けた。仄明《ほのあか》るい十畳の部屋があった。隣り部屋から漏れる燈が部屋を明るくしているのであった。弓之助はその部屋へはいった。隣り部屋の様子を窺った。やはり誰もいないらしい。思い切って襖を開けた。はたして人はいなかった。机が一脚置いてあった。そうしてその上に紙があった。紙には文字が記されてあった。
[#ここから2字下げ]
川大丁首《せんだいていしゅ》
[#ここで字下げ終わり]
こう書いてあった。
「はてな、どういう意味だろう?」
で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった!」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき縮《すく》められ、弓之助はバッタリ畳へ仆れた。身動きすることさえ出来なかった。
だが屋敷内は静かであった。咳《しわぶき》一つ聞こえなかった。行燈《あんどん》の燈《ひ》は光の輪を、天井へボンヤリ投げていた。どうやら風が出たらしい、裏庭で木の揺れる音がした。……いつまで経っても静かであった。人の出て来る気勢もなかった。
「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう? とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな酷《ひど》い目に合うかもしれない。さてこれからどうしたものだ。どうかして鎖を解きたいものだ」
彼は体を蜒《うね》らせた。鎖が肉へ食い込んだ。
恋文を書く銀杏茶屋のお色
「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから穏《おとな》しくしていよう。……だがそれにしても泥棒どもは、どこに何をしているのだろう? 姿を見せないとは皮肉じゃあないか。ひど[#「ひど」に傍点]く薄っ気味が悪いなあ。これじゃあどうも喧嘩にもならねえ。……考えたって仕方がねえ。もがく[#「もがく」に傍点]とかえってひど[#「ひど」に傍点]い目を見る。おちついて待つより仕方がねえ、うんそうだ、こんな時には、何かで心を紛らせるがいい。紙に書かれた『川大丁首』よしこの意味を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば川大丁首《せんだいていしゅ》。川大にして丁《わかもの》の首? こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」
依然屋敷は静かであった。
銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして恋文《ふみ》を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬にこっぽり[#「こっぽり」に傍点]した笑靨《えくぼ》が出来うっかり指で突こうものなら指先が嵌《は》まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を妾《めかけ》にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日いつも[#「いつも」に傍点]の半太夫茶屋で、逢おうと巧《たく》んでいるのであった。
「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に恋文《ふみ》へ書き込んだ。
「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに懐中《ふところ》へ入れた。それから他行《よそゆ》きの衣裳を着、それから店へ出て行った。
「ちょっとお母さん出て来てよ」
「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、莨《たばこ》を喫《ふ》かしていた養母のお兼《かね》は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変おめかし[#「おめかし」に傍点]だね。ふふん、さてはあの人と……」
「いらざるお世話、よござんすよ」
「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」
「おや、そいつは本当だね」
いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ妾《わたし》を嬲《なぶ》っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。
「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」
御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。
「どうも有難う、観音様。みんなあなた[#「あなた」に傍点]のご利益よ」
で彼女は歩いて行った。
「何て今日はいい日なんだろう。みんな妾《わたし》に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」
往来の人が囁《ささや》き合った。
「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」
「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。
「でもね、皆さんお生憎《あいにく》さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」
逢ってくれない弓之助
走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
菊石面《あばたづら》の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」
「これをね」とお色は恋文《ふみ》を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益※[#二の字点、1−2−22]ご繁昌」
「冗《むだ》をいわずと早くおいでな」
喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海|終日《ひねもす》のたりのたり哉《かな》」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船《かいこぶね》、水の面《おもて》にちらば[#「ちらば」に傍点]っていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。
「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚《うっとり》と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前《おひるまえ》のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉しかった。芝居、見世物の小屋掛けからは、稽古囃しが聞こえて来た。
横へ外《そ》れると半太夫茶屋で、ヒラリと渋染めの暖簾《のれん》を潜った。
「おやお色さん、早々と」女将《おかみ》が驚いて顔を長くした。眉を落とした中年増《ちゅうどしま》唇から真っ白い歯を見せた。
「さあお通り。……後からだろうね?」
ヒョイと母指《おやゆび》を出して見せた。
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うん[#「うん」に傍点]とご馳走を食べるよ」
「家《うち》の肴で間に合うかしら」
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
いつもの部屋へ通って行った。ちんまり[#「ちんまり」に傍点]と坐って考え込んだ。
「私あの人を嘗《な》め殺してやるわ」
恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの[#「あの」に傍点]人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの[#「あの」に傍点]人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お妾《めかけ》に行かなくってもいいのだわ」するとあの[#「あの」に傍点]人おっしゃるかも知れない。「お色、大変気の毒だが、おれには他に情婦《おんな》が出来たよ」……厭だわねえ、困っちまうわ。彼女は本当に困ったように部屋の中をウロウロ見た。「おやこの部屋は四畳半だわ」毎々通る部屋だのに、彼女は初めて気が附いたらしい。「ああでも[#「ああでも」に傍点]ないと四畳半! いいわねえ。嬉しいわ」嬉しい方へ考えることにした。
「でも随分待たせるわねえ」
まだ十分しか待たないのに。
床に海棠《かいどう》がいけてあった。春山の半折《はんせつ》が懸かっていた。残鶯《ざんおう》の啼音《なきね》が聞こえて来た。次の部屋で足音がした。
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。
長いこと待たなければならなかった。女中が茶を淹《い》れて持って来た。
でもとうとうやって
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