さん、用があるんだ、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]駕籠から出ておくんなせえ」後棒の方がこういった。
「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。
「まあ姐さん、急《せき》なさんな。着ける所は眼の先だ。がその前にご相談、厭でも諾《き》いて貰わなけりゃあならねえ」こういったのは先棒であった。「おお後棒、もうよかろう。お前からじっくり[#「じっくり」に傍点]いい聞かせてやんねえ」両膝を立ててうずくまり、腰の辺《あた》りを探ったのは、煙管《きせる》でも取り出そうとするのだろう。
先棒は及び腰をして覗き込んだ。
「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも俺《おい》らは駕舁きだ。が、問屋場に腰掛けていて、いちいちお客様のお出でを待って、飛び出すような玉じゃあねえ。もうちっとばかり[#「ちっとばかり」に傍点]荒っぽい方だ。俺《おい》らは石地蔵の六といい、仲間は土鼠《もぐら》の源太といって、大した悪事もやらねえが、コソコソ泥棒、掻っ払い、誘拐《かどわか》しぐらいはやろうってものさ、さてそこでお前さんだが、品川から駕籠に乗んなすった時おりから深夜《よふけ》、女身一人、出歩こうとは大胆だが情夫《おとこ》にあいたいの一心から、家を抜け出して来たんだな、こう目星を付けたってものさ。で、先棒がいう事には、何も男の所まで、担いで行くにゃああたるめえ、大の男が二人まで、ここに揃っているのだからな。なるほど縹緻《きりょう》は悪かろう、肌だって荒いに違《ちげ》えねえ。いうまでもなく情夫《おとこ》の方が、やんわり[#「やんわり」に傍点]と当るに違えねえ。だがそいつあ勘弁して貰い、厭でもあろうが俺《おい》ら二人を、亭主に持ってはくれまいか、ちょっくら[#「ちょっくら」に傍点]相談ぶって[#「ぶって」に傍点]見ようてな。もっとも厭だといったところでおいそれ[#「おいそれ」に傍点]と、聞く俺らじゃあねえ。よくねえ奴らに魅入られたと、こう思って器用に往生しねえ」
「おおおお六やどうしたものだ。そう強面《こわもて》に嚇《おど》すものじゃねえ。相手は娘だジワジワとやんな」先棒の源太はかがん[#「かがん」に傍点]だまま、駕籠の中を覗き込んだ。
「ナアーニ姐さん心配しなさんな。外見はちょっと恐《こわ》らしいが、これも案外親切ものでね。お前さんさえ諾《うん》といったらそれこそ二人で可愛がって、堪能させるのは受け合いだ。が二人とも飽きっぽいんで、さんざっぱら可愛がったそのあげくには、千住《こつ》か、品川か、新宿で、稼いで貰わなけりゃあならねえかも知れねえ。だがマアそいつは後のことだ。差し詰めここで決めてえのは、素直に俺らの女房になるか、それとも強情に首を振るか、二つに一つだ。返辞をしねえ」
駕籠の中からは返辞がなかった。どうやら顫えてでもいるらしい。と、ようやく声がした。
「まあそれじゃああなた方は、悪いお方でござんしたか」
振り袖姿に島田髷
「さあね、大して善人じゃあねえ。だがこいつもご時世のためだ。こんな事でもしなかったら、酒も飲めず、魚《とと》も食えず、美婦《たぼ》も自由《まま》にゃあ出来ねえってものよ。恨むなら田沼様を恨むがいい」
「厭だと妾《わたし》が首を振ったら?」「二人で手籠めにするばかりさ」「もしも妾が声を立てたら?」「猿轡《さるぐつわ》をはめちまう。だがもし下手にジタバタすると、喉笛に手先がかかるかもしれねえ。そうなったらお陀仏だ」「それじゃあ妾は殺されるの?」「可哀そうだがその辺だ」「死んじゃあ随分つまらないわね」「あたりめえだあ、何をいやがる」
女の声はここで途絶えた。
「それじゃあ妾はどんなことをしても、遁《の》がれることは出来ないんだね。仕方がないから自由《まま》になろうよ」
「へえ、そうかい、こいつあ偉い。ひどく判りのいい姐《ねえ》さんだ」
「だがねえ」と女の声がした。「見ればあなた方はお二人さん、妾の体はただ一つ、二人の亭主を持つなんて、いくら何んでも恥ずかしいよ。どうぞ二人で籤《くじ》でも引いて、勝った方へ、体をまかせようじゃないか」
「なるほどなあ、こいつあ理だ。六ヤイ手前どう思う」
「そうよなあ」と気のない声で「俺《おい》らがきっと勝つのなら、籤を引いてもよいけれどな」
「そいつあこっちでいうことだ。おいどうする引くか厭か?」「どうも仕方がねえ引くとしよう。せっかく姐さんのいうことだ。逆らっちゃあ悪かろう」「よしそれじゃあ松葉籤《まつばくじ》だ。長い松葉を引いた方が姐さんの花婿とこう決めよう」
源太は頭上へ手を延ばし、松の枝から葉を抜いた。
「さあ出来た。引いたり引いたり」「で、どちらが長いんだい?」「冗談いうな、あたぼう[#「あたぼう」に傍点]め、そいつを教えてなるものか。ふふん、そうよなあ、こっちかも知れねえ」「へん、その手に乗るものか。こいつだ、こいつに違えねえ」
六蔵は松葉をヒョイと抜いた。
「あっ、いけねえ、短けえや!」
「だからよ、いわねえ事じゃねえ、こっちを引けといったんだ」
源太は駕籠へ飛びかかった。「おお姐さん、婿は決まった」駕籠へ腕を差し込んだ。「恥ずかしがるにゃあ及ばねえ、ニッコリ笑って出て来ねえ」
グイと引いた手に連れて、若い娘がヨロヨロと出た。頭上を蔽うた森の木の梢をもれて、月が射した。板高く結った島田髷、それに懸けられた金奴《きんやっこ》、頸細く肩低く、腰の辺りは煙っていた。紅色《べにいろ》勝った振り袖が、ばったり[#「ばったり」に傍点]と地へ垂れそうであった。
「可愛いねえ、お前さんかえ、源さんや。花婿や」キリキリと腕を首へ巻いた。「さあ行こうよ、お宿へね」源太をグイと引き付けた。
「痛え痛え恐ろしい力だ。まあ待ってくれ、呼吸《いき》が詰まる」源太は手足をバタバタさせた。
「意気地《いくじ》がないねえ、どうしたんだよ。やわい[#「やわい」に傍点][#「どうしたんだよ。やわい[#「やわい」に傍点]」は底本では「どうしたんだよ。やわ[#「。やわ」に傍点]い]じゃあないかえ、お前さんの体は。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、手頼《たよ》りないねえ」源太の首へ巻いた手を、グーッと胸へ引き寄せた。
「む――」と源太は唸ったが、ビリビリと手足を痙攣《けいれん》させた。と、グンニャリと首を垂れた。
手を放し、足を上げ、ポンと娘は源太を蹴った。一団の火焔の燃え立ったのは、脛に纏った緋の蹴出《けだ》しだ。
「化物《ばけもの》だあァ!」と叫ぶ声がした。石地蔵の六が叫んだのであった。
息杖を握ると飛び込んで来た。と、娘は入り身になり、六蔵の右腕をひっ[#「ひっ」に傍点]掴んだ。と、カラリと息杖が落ちた。「ワ――ッ」と六蔵は悲鳴を上げた。とたんにドンと地響きがした。六蔵の体が地の上へ潰された蟇《がま》のようにヘタバった。寂然《しん》と後は静かであった。常夜燈の灯がまばたい[#「まばたい」に傍点]た。ギー、ギーと櫓を漕ぐ音が、河の方から聞こえて来た。
怪しの家怪しの人々
クルリと娘は拝殿へ向いた。ポンポンと二つ柏手《かしわで》を打った。それからしとやか[#「しとやか」に傍点]に褄《つま》を取った。と、境内を出て行った。
社の蔭に身を隠し、様子を見ていた弓之助は、胆を潰さざるを、得なかった。
「素晴らしい女もあるものだ。どういう素性の女だろう? ……待てよ、島田に大振り袖! ……ううむ、何んだか思いあたるなあ。一番後を尾行《つけ》て見よう」
数間を隔てて後を追った。浅草河岸を花川戸の方へ、引っ返さざるを得なかった。女はズンズン歩いて行った。月の光を避けるように、家の軒下を伝って歩いた。遠くで犬が吠えていた。人の子一人通らなかった。隅田川から仄白《ほのしろ》い物が、一団ムラムラと飛び上がった。が、すぐ水面へ消えてしまった。それは鴎《かもめ》の群れらしかった。女は急に立ち止まった。そこに一軒の屋敷があった。グルリと黒塀が取りまいていた。一本の八重桜の老木が、門の内側から塀越しに、往来の方へ差し出ていた。満開の花は綿のように白く団々と塊《かた》まっていた。女は前後を見廻した。つと弓之助は家蔭に隠れた。女は門の潜り戸へ、ピッタリ身体をくっ付けた。それから指先で戸を叩いた。と、中から声がした。
「おい誰だ。名を宣《なの》れ」
「俺だよ、俺だよ、勘助だよ」
「うむそうか、女勘助か」
ギ――と潜り戸があけられた。女の姿は吸い込まれた。八重桜の花がポタポタと散った。
弓之助は思わず首を傾《かし》げた。「何んとかいったっけな、女勘助? ……では有名な賊ではないか」
その時往来の反対《むこう》の方から、一つの人影が近付いて来た。月光が肩にこぼれていた。浪士風の大男であった。大髻《おおたぶさ》に黒紋付き、袴無しの着流しであった。しずしずこっちへ近寄って来た。例の家の前まで来た。と、潜り戸へ体を寄せた。それから指でトントンと叩いた。
「何人でござるな、お宣《なの》りくだされ」すぐに中から声がした。
「紫紐《むらさきひも》丹左衛門」
すると潜り戸がギーと開いた。浪士の姿は中へ消えた。同時に潜り戸が閉ざされた。
とまた一つの人影が、ポッツリ月光に浮き出した。博徒風の小男であった。心持ち前へ首を傾げ、足先を見ながら歩いて来た。急に人影は立ち止まった。例の屋敷の門前であった。ツと[#「ツと」に傍点]人影は潜り戸へ寄った。同じことが繰り返された。指先で潜り戸をトントンと打った。
「誰だ誰だ、名をいいねえ」
「新助だよ、早く開けろ」
「稲葉の兄貴か、はいりねえ」
潜り戸が開き人影が消え、ふたたび潜り戸がとざされた。
その後はしばらく静かであった。
またもその時足音がした。足駄と草鞋《わらじ》との音であった。忽ち二つの人影が、弓之助の前へ現われた。その一人は旅僧であった。手甲《てっこう》、脚絆《きゃはん》、阿弥陀笠《あみだがさ》、ずんぐり[#「ずんぐり」に傍点]と肥えた大坊主であった。もう一人の方は六部であった。負蔓《おいずる》を背中にしょっ[#「しょっ」に傍点]ていた。白の行衣を纏っていた。一本歯の足駄を穿いていた。弓之助の前を通り過ぎ、例の屋敷の門前まで行った。ちょっと二人は囁き合った。ツと[#「ツと」に傍点]旅僧が潜り戸へ寄った。指でトントンと戸を打った。すぐに中から声がした。
「かかる深夜に何人でござるな?」
「鼠小僧外伝だよ」
つづいて六部が忍ぶようにいった。
「俺は火柱夜叉丸《ひばしらやしゃまる》だ」
例によって潜り戸が、ギ――と開いた。二人の姿は吸い込まれた。ゴトンと鈍い音がした。どうやら閂《かんぬき》を下ろしたらしい。サラサラサラサラと風が渡った。ポタポタと八重桜の花が落ちた。そのほかには音もなかった。
ガラガラと飛び出した四筋の鎖
闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、彼奴《きゃつ》ら盗賊の集会所だな。いやよいことを嗅ぎ付けた。叔父へ早速知らせてやろう。一網打尽、根断やしにしてやれ」
スルスルと彼は家蔭を出た。
「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。
「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……関係《つながり》があるのではあるまいかな? ……
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