障子を開けると縁へ出た。
 午後の陽が中庭にあたっ[#「あたっ」に傍点]ていた。
 お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。
 縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。間《あい》の襖をサラリと開けた。
 その部屋には燈火《ともしび》があった。行燈《あんどん》がボッと点っていた。


    途方もねえ目違いさ

 一人の武士が四筋の鎖で、がんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》みに搦《から》められていた。畳の上に転がっていた。それを五人の異形の男女が、真ん中にして囲繞《とりま》いていた。一人は僧侶一人は六部、一人は遊び人、一人は武士もう一人は振り袖の娘であった。娘は胡坐《あぐら》を掻いていた。そうして弓の折れを持っていた。
 左伝次とお色の姿を見ると彼らは一斉に顔を上げた。
 と、左伝次はお色へいった。
「お色殿、この方かね」搦められた武士を指さした。
 ヒョイとその武士が顔を上げた。お色はやにわに、縋《すが》り付いた。
「弓様! 弓様! お色でございます!」ひとしきり[#「ひとしきり」に傍点]部屋の中は静かであった。白旗弓之助はお色を見た。
「お色ではないか、どうして来た」驚いたような声であった。
「神道の兄貴、どうしたんだい?」
 ややあって娘が――女勘助が、変な顔をして声を掛けた。
 すると左伝次は苦笑いをした。
「飛んだ人違いだ。偉いことをやった。おいおい早く鎖を解きねえ」
 鼠小僧外伝が、ガラガラと鎖を解き放した。と鎖は柱の中へ、手繰《たぐ》られたように飛び込んで行った。
「おい貴様達、謝まってしまえ。詳しい話はそれからだ」易学の大家加藤左伝次、本名神道徳次郎はピタリと畳へ端坐した。それから両手を膝の前へ突いた。
「いや、白旗弓之助様、とんだ粗忽《そこつ》を致しました。まずお許しくださいますよう」恐縮し切って辞儀をした。
「おいおい貴様達このお方はな、お旗本白旗小左衛門様の、ご次男にあたられる弓之助様だ、曲淵様の甥ごだよ」
「へえ」と五人は後へいざっ[#「いざっ」に傍点]た。
「銅銭会員じゃあなかったのか?」火柱夜叉丸が眼を丸くした。
「うん、途方もねえ目違いさ」
「だが、それにしてはなんのために、昨夜《ゆうべ》ここへ忍んだんだろう?」女勘助が疑がわしそうにいった。
「そうだ、そいつがわからねえ」稲葉小僧新助がいった。
「おれはどうでもこのお侍は、銅銭会員だと思うがな」鼠小僧外伝がいった。「そうでなかったら責められないうちにそいつを弁解するはずだが」紫紐丹左衛門は腕を組んだ。
「本当にそうだ、そいつが解らねえ。そいつをハッキリいってさえくれたらおれたち殴るんじゃあなかったのに」弓の折れを指先で廻しながら、女勘助は眼を光らせた。
「いや、いずれその事については、白旗様からいい訳があろう。とにかくおれの見たところでは、銅銭会員じゃあなさそうだ」神道徳次郎はいい切った。
「さて白旗弓之助様、昨夜はどういう覚し召しで、ここへお忍びなされましたな?」
「それよりおれには聞きたいことがある。部屋の四隅の柱から、四本の鎖が飛び出して来たが、あれはなんという兵法だな?」これが弓之助の言葉であった。
 六人の者は眼を見合わせた。
「おい兄貴|迂散《うさん》だぜ」女勘助が怒るようにいった。「肝腎のいい訳をしねえじゃあねえか」
「待て待て」と徳次郎は叱るように。
「宝山流の振り杖から、私が考案致しました。捕り方の一手でございますよ」
「あれにはおれも降参したよ」弓之助は妙な苦笑いをした。「人間が斬ってかかったのなら、大して引けも取らないが、どうもね、鎖じゃあ相手にならねえ。……そこでもう一つ訊くことがある。紙に書かれた『川大丁首』いったいこいつはどういう意味だ?」
「それがおわかりになりませんので?」徳次郎は、いくらか探るように訊いた。


    銅銭会縁起録内容

「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。
 女勘助は横を向き、プッと口をとがらせ[#「とがらせ」に傍点]た。
「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、
「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に順《したが》って道を行なう。こういう意味だそうでございます。つまり彼らの標語なので。「関開路現《かんをひらきみちをあらわす》」こんな標語もございます。そうしてこれを隠語で記せば「並井足玉《へいせいそくぎょく》」となりますそうで」
「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり旁《つくり》を取ったり、色々にして造った字だな。いかさまこれでは解らないはずだ」
「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな?」
 するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。
「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」
「えっ」と勘助は胸を反《そ》らせた。「へえ、お前さんご存知で?」
「あんまり見事な業《わざ》だったので、後からこっそり尾行《つけ》て来た奴さ」
「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので?」
「そうさ天明の六人男、そいつがみんな[#「みんな」に傍点]揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。

 北町奉行所の役宅であった。
 その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。
「往昔《おうせき》福建省福州府、浦田《ほだ》県九連山山中に、少林寺と称する大寺あり。堂塔|伽藍《がらん》樹間に聳え、人をして崇敬せしむるものあり。達尊爺々《たつそんやや》の創建せるも技一千数百年の星霜を経。僧侶数百の武に長じ、軍略剣法方術に達す。
 康※[#「熈」の「ノ」に代えて「冫」、第3水準1−87−58]《こうき》帝の治世に西蔵《チベット》叛す。官軍ことごとく撃退さる。由《よ》って皇帝諸国に令し、賊滅するものを求めしむ。少林寺の豪僧百二十八人、招に応じて難に赴《おもむ》く。国境に至りて大いに戦い、敵国をして降を乞わしむ。皇帝喜び賞を与え僧を少林寺に帰さんとす。隆文耀《りゅうもんよう》、張近秋《ちょうきんしゅう》、二人の大官皇帝に讒《ざん》し、少林寺の僧を殺さしむ。
 兵を発して少林寺を焼く、蔡徳忠《さいとくちゅう》、方大洪《ほうたいこう》、馬超興《ばちょうこう》、胡徳帝《ことくてい》、李式開《りしきかい》の五人の僧、兵燹《へいせん》をのがれて諸国を流浪し同志を語らい復讐に努む。すなわち清朝を仆さんとするなり。この結社を三合会また一名銅銭会と称す」
 これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく書物《ほん》には記されてあった。
「公所(大結社)」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「造字《つくりじ》」のことや「隠語」のことや「符牒」のことや「事業」の事や「海外における活動」のことについても、かなり詳しく記されてあった。
 しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。
 とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって窺《うかが》われた。のみならず印度《インド》や南洋にある、百万近くの支那人のうち、過半以上は会員として、働いていることも記されてあった。
 それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。


    京師殿と甲斐守

「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の所業《しわざ》であろうが、どういう径路で将軍家をどうして奪ったかわからない。どこに将軍家を隠しているか、それとも無慚に弑《しい》したか、これでは一向見当が付かない。……一人でもよいから銅銭会員をどうともして至急捕えたいものだ」
 甲斐守は沈吟した。
 その時近習がはいって来た。
「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」
「何、京師殿、それはそれは。叮嚀《ていねい》にここへお通し申せ」
 近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。
「おおこれは京師殿」
「甲斐守殿、いつもご健勝で」
 二人は叮嚀に会釈した。
「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」
「何?」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな? してどこで? どんな騒動を?」
「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」
 両国橋での出来事を、かいつまん[#「かいつまん」に傍点]で京師殿は物語った。
「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」
「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」
「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」
「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」
「いやいや」と京師殿は手を振った。
「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」
「いかさまこれはごもっともでござる」
 そこで甲斐守は沈黙した。
 間もなく京師殿は飄然と去った。
 さてその夜のことであった。
 花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。
 歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、奢侈《しゃし》下剋上《げこくじょう》[#ルビの「げこくじょう」は底本では「げこくじやう」]の風習が、勤倹質素尚武となり、幕府瓦壊の運命を、その後も長く持ちこたえ[#「こたえ」に傍点]たのであった。
 この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の社稷《しゃしょく》に、大鉄槌を下そうとした、それにも増したものであった。捕り方の人数六百人! この一事だけでも捕り物の、いかに大袈裟なものであり、いかに大事件であったかが、想像されるではあるまいか。一口にいえば銅銭会員と幕府の捕り方との格闘なのであった。
 その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り燈火《ともしび》一つ見えなかった。
 と、闇から生まれたように、浅草花川戸の一所《ひとところ》に、十人の人影が現われた。一人の人間を真ん中に包み丸く塊《かた》まって進んで来た。一軒の屋敷の前まで来た。黒板塀がかかっていた。門がピッタリ閉ざされていた。屋根の上に仄々《ほのぼの》と、綿のようなものが集まっていたがどうやら八重桜の花らしい。
 その前で彼らは立ち止まった。
 とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。


    慶安以来の大捕り物

「背《うしろ》に幾多《いくた》の宝玉ありや?」
「一百八」
「途上虎あり、いかにして来たれる?」
「我すでに地神に請えり、全国通過を許されたり」
「汝橋を過ぎたるや否や?」
「我過ぎたり矣《い》」
「いずれの橋ぞ
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