野か浅草か。紅霞の中からボーンと響く。こんな形容は既に古い。「鐘一つ売れぬ日はなし江戸の春」耽溺詩人|其角《きかく》の句、まだこの方が精彩がある。とまれ江戸は湧き立っていた。人の葬式にさえ立ち騒ぐ、お祭りずきの江戸っ子であった。ましてや花が咲いたのであった。押すな押すなの人出であった。さあ江戸っ子よ飜筋斗《とんぼ》を切れ! おっとおっと花道じゃあねえ。往来でだ、真ん中でだ。ワーッ、ワーッという景気であった。
その日|情婦《おんな》から呼び出しが掛かった。若侍は出かけて行った。
いつも決まって媾曳《あいびき》をする、両国広小路を横へ逸《そ》れた、半太夫茶屋へ足を向けた。
女は先刻から待っていた。
やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
そうだいつも[#「いつも」に傍点]ならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく[#「ろくろく」に傍点]物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
と、女が切り出した。別れてくれと
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