ことだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
とお色は怪訝《けげん》そうに訊いた。
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、妾《わたし》はさようならよ」
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ宛《あ》てた。「威張れるような人間なら、もっと早く役附いていたよ」
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では諂《へつら》うからさ」
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、生地《きじ》で仕えられるということさ。越中守様の下でなら、お太鼓を叩く必要もなければ怒ってばかりいる必要もない。楽に呼吸《いき》を吐けるというものさ」
この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ嬶《かかあ》になれる」
「ゾッとするわ! 田沼の爺《じじい》!」
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつ[#「やつ」に傍点]よ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「瞞《だま》すと妾|狂人《きちがい》になるわ!」
二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には野暮天《やぼてん》ではなかった。寄り添う代わりに坐り直した。と、お色がスッと立った。裏の障子を引き開けた。眼の前に隅田が流れていた。行き交う船! 夕焼け水!
「ああ私にはあの水が……
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