ばかりではなかった。いろいろの書物《ほん》を読んでくれたよ。間々《あいだあいだ》間々には越中めが、世間話をしてくれたっけ。わしはすっかり[#「すっかり」に傍点]吃驚《びっくり》してしまった。ひどく浮世はセチ辛いそうだな。町人や百姓や武士までが、わしを怨んでいるそうだな。うん、越中めがそういってたよ。わしは最初は疑がったが、しかししまいには信じてしまった。そこでおれは決心したよ。これまでおれを盲目《めくら》あつかい[#「あつかい」に傍点]にした、悪い家来めを遠ざけて、越中を代わりに据えようとな。……で、ともかくもそんな塩梅《あんばい》で、今朝までおれは越中の屋敷で、暮らしていたというものさ。その今朝越中がこんなことをいった。『結社は退治られてしまいました。もはや安全でございます。お城へお帰り遊ばしませ』そこでまたもや駕籠へ乗り、以前の道を帰って来たのさ……。さあ改革だ! 建て直しだ。いい政事《まつりごと》をしなけりゃならない」
 だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく逝去《せいきょ》した。田沼主殿頭が薬師《くすし》をして、毒を盛らせたということであるが、真相は今にわからない。
 しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。

 青葉の季節が訪ずれて来た。
 半太夫茶屋の四畳半で、愉快な媾曳《あいびき》が行われていた。
 弓之助とお色との媾曳《あいびき》であった。
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、精々《せいぜい》これから可愛がるといいわ」
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を宣《なの》ればよござんしたに」
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ[#「がんじ」に傍点]搦《がら》みにされたんだからなあ。おめおめ生け捕りにされた身で、名前や素姓が明されるものか」
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
 金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
 ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないという
前へ 次へ
全41ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング