》を嬲《なぶ》っているよ」彼女はそこでニッコリとした。鳩がポッポと啼いていた。彼女の周囲へ集まって来た。
「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」
御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。
「どうも有難う、観音様。みんなあなた[#「あなた」に傍点]のご利益よ」
で彼女は歩いて行った。
「何て今日はいい日なんだろう。みんな妾《わたし》に笑いかけているよ。何だか知らないが有難うよ」
往来の人が囁《ささや》き合った。
「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」
「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。
「でもね、皆さんお生憎《あいにく》さまよ、見せる人はほかにあるんですよ」
逢ってくれない弓之助
走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
菊石面《あばたづら》の四十男、喜介がヒョイと顔を出した。「へいへいこれはお色さん」
「これをね」とお色は恋文《ふみ》を出した。「いつもの方の所へね。……これが駕籠賃、これが使い賃、これが向こうのお屋敷の、若党さんへの心付け」
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益※[#二の字点、1−2−22]ご繁昌」
「冗《むだ》をいわずと早くおいでな」
喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海|終日《ひねもす》のたりのたり哉《かな》」……「海」を「河」に置き代えよう。「春の河終日のたりのたり哉」まさに隅田がそうであった。おりから水は上げ潮で河幅一杯に満々と、妊婦の腹のように膨れていた。荷足、帆船、櫂小船《かいこぶね》、水の面《おもて》にちらば[#「ちらば」に傍点]っていた。両岸の家並が水に映り、そこだけ影がついていた。
「いい景色、嬉しいわね」お色は恍惚《うっとり》と河を見た。「まるでお湯のように見えるじゃあないの」――嬉しい時には何も彼も、水さえ湯のように見えるものであった。「おや都鳥が浮いているよ。可愛いわねえ、有難うよ」またお色は礼をいった。嬉しい時には有難く、有難い時には礼をいう。これは大変自然であった。そこでお色は橋を越した。まだ広小路は午前《おひるまえ》のことであんまり人が出ていなかった。それがまたお色には嬉
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