を解いてやろう」そこで彼は考え出した。だがどうにもわからなかった。「こんな熟字ってあるものじゃねえ。川は川だし大は大さ。丁は丁だし首は首だ。音で読めば川大丁首《せんだいていしゅ》。川大にして丁《わかもの》の首? こう読んだって始まらねえ。……こいつ恐らく隠語なんだろう」
依然屋敷は静かであった。
銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして恋文《ふみ》を書いていた。まだ春の日は午前であった。店の客も少なかった。部屋の中は明るかった。春陽が丸窓へ射していた。小鳥の影が二三度映った。彼女は大分ご機嫌であった。顔の紐が解けていた。頬にこっぽり[#「こっぽり」に傍点]した笑靨《えくぼ》が出来うっかり指で突こうものなら指先が嵌《は》まり込んで抜けそうもなかった。彼女はひどく嬉しいのであった。千代田城中に大事件が起こり、田沼主殿頭が狼狽し、お色を妾《めかけ》にすることなど、とても出来まいということを――もちろんハッキリといったのではないが、とにかくそういう意味のことを、田沼の家の用人から、今朝方知らせがあったからであったのみならず、養母に渡したところの、手附けの金は手附け流れ、返すに及ばぬということであった。で、養母もご機嫌であった。そこでお色はこの事情を、恋しい男の弓之助へ告げ、今日いつも[#「いつも」に傍点]の半太夫茶屋で、逢おうと巧《たく》んでいるのであった。
「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に恋文《ふみ》へ書き込んだ。
「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに懐中《ふところ》へ入れた。それから他行《よそゆ》きの衣裳を着、それから店へ出て行った。
「ちょっとお母さん出て来てよ」
「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、莨《たばこ》を喫《ふ》かしていた養母のお兼《かね》は、黒い歯茎で笑ってみせた。「おやおや大変おめかし[#「おめかし」に傍点]だね。ふふん、さてはあの人と……」
「いらざるお世話、よござんすよ」
「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」
「おや、そいつは本当だね」
いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ妾《わたし
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