ふみ》そっくり[#「そっくり」に傍点]だ。見ざる聞かざるいわざるだ。将軍家よ見てはいけない。人民どもよ見てはいけない。将軍家よ聞いてはいけない。人民どもよ聞いてはいけない。将軍家よいってはいけない。人民どもよいってはいけない。一口にいえば上をも下をも木偶坊《でくのぼう》に仕立てようとしているのだがこいつは非常に危険だ。聞かせまいとすれば聞きたがる。いわせまいとすればいいたがる。見せまいとすれば見たがるものだ。圧迫するということは、いつの場合でもよくはない。圧迫、圧迫、さて圧迫! その次に起こるものは爆発だ。この爆発は恐ろしい。一切の物を破壊しようとする。いっそうそれより処士横議、自由に見させ自由にいわせ、自由に聞かせた方がいいではないか。遙かにその方が安全だ。琉《は》け口を作ってやるのだからな。……ところでここはどこだろう?」
 そこは浅草馬道であった。
「お色め、今頃どうしているだろう? まだ妾《めかけ》にはゆくまいな。ちょっと様子を見たいものだ。別れた、女の様子を見る。未練と人はいうだろう。だが幸い人気《ひとけ》がない。おりから深夜で月ばかりだ。月に見られたって恥ずかしいものか。しかも春の朧月、被衣《かつぎ》を、冠っておいでなさる」
 観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な公孫樹《いちょう》が立っていた。その根もとに茶店があった。すなわちお色の住居《いえ》であった。犬が門を守っていた。と尾を振って走って来た。よく見慣れている弓之助だからで、懐しそうにじゃれ[#「じゃれ」に傍点]ついた。「おおよしよし」と頭を撫でた。「犬の方がよっぽど[#「よっぽど」に傍点]人間らしい。さて何かやりたいが、小判をやってもし方がねえ。その他には何んにもないお気の毒だがくれることは出来ねえ。……お色め、今ごろいい気持ちで、グッスリ眠っているだろう。そう思うといい気持ちはしねえ。間もなく田沼の皺くちゃ[#「くちゃ」に傍点]爺に、乳房を自由にされるんだろう。こいつは一層いい気持ちがしねえ。だがひょっと[#「ひょっと」に傍点]するとおれの事を案じて眼覚めているかもしれねえ。こいつはちょっといい気持ちだ。まずなるたけならいい方へ考えた方がよさそうだ。少なくも気休めにはなるからな」
 観音
前へ 次へ
全41ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
国枝 史郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング