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木曽川や藤咲く下を行く筏
卯の花を雪と見て来よ木曽の旅
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季節は晩春初夏であった。老鶯も啼いていた。筏を見ては流転が思われ、旅と感じて行路難が犇々と胸に浸みるのであった。
奈良井まで来た時友とも別れ、行雲流水一人旅となった。木の根へつく然と腰を掛け、主水は茫然と首垂れた。
畑を鋤いている農夫でもあろう、唄うたう声が聞えて来た。それは盆踊の唄である。いつも耳にする唄である。
「そうだ。裸でも寝られる浮世だ。襦袢一枚でも暮らせば暮らせる。武士で居ようと思えばこそ見得や外聞に捉らわれて、刄傷沙汰に及んだり広い天地を狭く暮らしたりする。いっそ両刀を投げ出して了《しま》ったら却って延々とするかもしれない。俺は思い切って百姓になろう」
彼は不図悟入したのであった。
「負けて裸で襦袢で寝たら、襦袢みじこう夜は永う」
斯ういう農夫の唄を聞いて、俄に武士を捨てた。萩原主水が、奈良井の百姓になってから既に五年の月日が経った。所の郷士千村家からお信乃という格好の妻も迎え、今年三才になる男の子まで儲けて、気安い身分となっていた。
程近い福島の城下からは武士時代の朋輩も訪ねて来るし、近所の農家からは四季折々の配物などを貰いもするし、それに女房の実家というのが近郷第一の富豪ではあり、生活には不自由しなかった。美しい男振に想を懸け、進んで嫁いで来たお信乃であるから、彼への貞節は云う迄も無い。子供の松太郎も美しく生い立ち、前途の憂などは更に無かった。
しかし此儘彼の生活が平穏無事に過ぎ行くとしたら物語に綴る必要は無い。果然意外の災難が彼の一家に降って湧いた。
「近頃不思議の人攫いが徘徊するということだ」―「五才迄の子を攫って行くそうだ」
斯ういう噂の立ったのは夏も終りの八月のことで、噂は噂だけに止どまらず、実際幾人かの五才迄の子供が数々《しばしば》行衛が不明になった。
「夜は早く戸閉りをして、松太郎を外へ出さぬようにせよ」或日主水は斯う云い置いて藪原の宿まで用達しに行った。用を果たし路を急いで、家近く帰って来た時には、もう丑の刻を過ごしていた。星月夜の下に静もっている自分の住居を眺めた時には何んとなく心が穏かになった。
突然妻の悲鳴が聞えた。と木戸口が蹴破られ、軒の高さよりも尚身丈の高い、腹突出した大山伏が、三才の松太郎を小脇に抱え、
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