て、茫然《ぼんやり》坐っていたからである。
 ここは加賀屋の奥まった部屋で、三人の人物が対座している。
 手代の長吉と娘の品子と、そうして今しがた訪ねて来た、宇和島鉄之進という若侍である。
「なるほど」と云ったのは宇和島という武士で、当惑を顔へ現わした。
「いや左様なお取り込みとも存ぜず、お訪ねしてかえって失礼をいたした。拙者は大阪表より――平野屋と申す大家より、大切の品物をあずかって、持参いたしたものでござるが、御主人が不在とあって見れば、その品物は渡し難く、一旦宿元へ持ち帰りましょう。……しかしそれにしても、御主人の行方の、一日も早く知れますよう、願わしいものでございます」
 そっと品子を見やったが、
「品子様とやら御心配でござろう。しかし心をしっかりと持たれ、決してお取り乱しなされぬよう」
 こうは云ったが心の中では、
「可哀そうに少しく上気して居る。こじれ[#「こじれ」に傍点]ると発狂もしかねまい」
「それでは御免」と立ち上った。
「主人在宅でございましたら、お扱い様もございますのに、この様な有様でございますれば……」
 気の毒そうに長吉が云った。
「いやいや何の、心配は御無用」
「それでは、ただ今のお住居《すまい》は?」
「神田神保町の若菜屋でござる」
 云いすてると宇和島鉄之進は、事情を審しく思ったのであろう、小首を傾げながら座を立った。
 そこで、長吉は送って出たが、後に残った品子という娘が、不意に甲高い声を上げた。
「妾《わたし》には解《わか》る! 殺されていなさる! おお、お父様もお兄様も!」
 フラフラと立つと眼を抑えた。
「お久美様の祟りだ、お久美様の祟りだ!」
 フラフラと部屋から外へ出た。
 水に螢をあしらった、京染の単衣が着崩れてい、島田髷さえ崩れている。後毛のかかった丸形の顔が、今はゲッソリ痩せている。優しく涼しい眼だったろう、それが一方を見詰めている。
 足許さだまらず歩いて行く。
 やがて襖をスルリと開けた。
「宇和島様!」と不意に呼んだ。
「綺麗な綺麗なお武家様!」
 それからまたも甲高く、
「献金いたすでございましょう! お久美様お久美様お助け下され!」
 また襖をスルリと開けた。奥庭の方へ行くのでもあろう。
 その時衣摺れの音がして、すぐに一方の襖が開いたが、その風俗《みなり》で大概わかる、どうやら品子の乳母らしい、四十ぐらいの女が現われた。
「まあお嬢様!」と声をかけたが、やにわに品子を抱きしめると、二人ながらベタベタと崩折れた。
「乳母《ばあや》!」と呼んだが縋り付いた。
「お嬢様お嬢様! ……もう不可《いけ》ない! ……気が狂われた! お可哀そうに!」
「乳母!」と縋ったがうっとり[#「うっとり」に傍点]となった。
「献金しておくれよ! たくさんにねえ」
「どこへ?」と乳母は眼を見張った。
「お久美様へだよ。……ねえたくさんに。……」
 すると乳母のお繁の顔へ、凄い微笑があらわれたが、
「はいはいよろしゅうございますとも」
 だがその時ソロソロと、一方の襖があけられて、一人の男の顔が出た。薄|痘痕《あばた》のある顔である。気付いてお繁が顔を向けると、すぐに襖は閉ざされた。
「蔵番の東三だが、変だねえ」
 何となく不安を感じたのだろう、お繁は頤《おとがい》を襟へ埋めたが、ちょうどこの頃宇和島鉄之進は、順賀橋《じゅんがばし》の辺りを歩いていた。


18[#「18」は縦中横]

 本多|中務大輔《なかつかさだいふ》の邸を過ぎ、書替御役所の前を通り、南の方へ歩いて行く。
 ヂリヂリと熱い夏の午後で、通っている人達にも元気がない。日陰を選んで汗を拭き拭き、力が抜けたように歩いて行く。ひとつは飢饉のためでもあった。大方の人達は栄養不良で、足に力がないのであった。
「南北三百二十間、東西一百三十間、六万六千六百余坪、南北西の三方へ、渠《ほりわり》を作って河水を入れ、運漕に便しているお米倉、どれほどの米穀が入っていることか! いずれは素晴らしいものだろう。それを開いて施米したら、餓死するものもあるまいに、勝手な事情に遮られて、そうすることも出来ないものと見える」
 心中《こころ》でこんなことを思いながら、お米倉の方角へ眼をやった。すると、眼に付いたものがある。五六人の武士が話し合いながら、鉄之進の方へ来るのである。姿には異状はなかったが、様子に腑に落ちないところがあった。と云うのは鉄之進が眼をやった時、急に話を止めてしまって、揃って外方《そっぽ》を向いたからである。そうしてお互いに間隔《へだて》を置き、連絡のない他人だよ――と云ったような様子をつくり、バラバラに別れたからである。
「怪しい」と鉄之進は呟いた。
「加賀屋の手代だと偽って、昨夜深川の佐賀町河岸で、うまうま俺をたぶらかし[#「たぶらかし」に傍点]、柏屋へ連れ込んだ連中があったが、その連中の一味かも知れない。何と云ってもこの俺は、高価の品物を持っている。奪おうと狙っている連中が、いずれは幾組もあるだろう。加賀屋源右衛門へ渡す迄は、保存の責任が俺にある。つまらない連中に関係《かかりあ》って、もしものことがあろうものなら、使命《つかい》を全うすることが出来ぬ。……そうだ、あいつらをマイてやろう」
 そこで鉄之進は足を早めた。
 旅籠町の方へ曲がったのである。
 そこで、チラリと振り返って見た。五六人の武士が従《つ》いて来る。
「これは不可《いけ》ない」と南へ反れた。
 出た所が森田町である。
 でまたそこで振り返って見た。やはり武士達は従いて来る。そこで今度は西へ曲がった。平右衛門町へ出たのである。
 また見返らざるを得なかった。いぜんとして武士は従いて来る。
「いよいよこの俺を尾行《つけ》ているらしい。間違いはない、間違いはない」
 そこでまた南へ横切った。神田川河岸へ出たのである。それを渡ると両国である。
「よし」と鉄之進は呟いた。
「両国広小路へ出てやろう。名に負う盛場で人も多かろう。人にまぎれてマイてやろう」
 なおもぐるぐる廻ったが、とうとう両国の広小路へ出た。
 飢饉の折柄ではあったけれども、ここばかりは全く別世界で、見世物、小芝居、女相撲、ビッシリ軒を立て並べ、その間には水茶屋もある。飜《ひら》めく暖簾《のれん》に招きの声、ゾロゾロ通る人の足音、それに加えて三味線の音、太鼓の音などもきこえてくる。
「旨いぞうまいぞ、これならマケるぞ」
 群集に紛れ込んだ鉄之進は、こう口の中で呟いたが、しかし何となく不安だったので、こっそり背後《うしろ》を振り返って見た。
 いけないやっぱり従けて来ていた。しかもこれ迄の従け方とは違い、刀の柄へ手を掛けて、追い逼るように従けて来る。群集が四辺《あたり》を領している、こういう場所で叩っ切ったら、かえって人目を眩ますことが出来る。――どうやら彼らはこんなように、考えて追い逼って来るようであった。
「これはいけない、危険は逼った。ここで切り合いをはじめたら、大勢の人を傷付けるだろう。と云ってああ[#「ああ」に傍点]もハッキリと、殺意を現わして来る以上は、憎さも憎しだ、構うものか、一人二人叩っ切って逃げてやろう」
 こう決心をした鉄之進が、迎えるようにして足を止めた時、
「駕籠へ付いておいでなさりませ」
 艶めかしい女の声がした。
 見れば鉄之進の左側を、一挺の駕籠が通っている。


19[#「19」は縦中横]

「おや」と鉄之進は怪訝そうにした。
「誰に云ったのだろう? この俺にか?」
 するとまた駕籠から声がした。
「轡《くつわ》の定紋のお侍様、駕籠に付いておいでなさりませ」
「うむ、違いない、俺に云ったのだ」
 ――いずれ理由《わけ》があるのだろう。――こう思ったので鉄之進は、素早く駕籠の後を追った。
 側に芝居小屋が立っていた。付いて廻ると木戸口があった。と駕籠が入って行く。つづいて宇和島鉄之進が、入って行ったのは云うまでもない。舞台裏へ入る切戸口の前で、駕籠がしずかに下りたかと思うと、駕籠の戸が内から開き、一人の女が現われた。女役者の扇女《せんじょ》である。切戸口から内へ入ろうとした時、裏木戸から武士達が入り込んで来た。鉄之進を従けて来た武士達である。
「御心配には及びませんよ」
 扇女は鉄之進へ囁いたが、五六人の武士へ眼をやった。
「ねえ皆さん方、見て下さいよ。ここに居られるお侍さんが、この妾《わたし》の恋しい人さ。……だから虐《いじ》めちゃアいけないよ。……お前さん達のお頭の、鮫島大学さんへ云っておくれ。女役者の扇女の情夫《いろ》は、途方もなく綺麗なお武家さんだったとね。……何をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]しているんだよ。日中狐につままれもしまいし。……早くお帰り早くお帰り!」
 鉄之進の方へ身を寄せたが、
「いらっしゃいまし、妾の部屋へ」
 裏舞台へ入り込んだ。
 楽屋入りをする道程《みちすがら》に、扇女は鉄之進を助けたのであるが、たしかもう一人扇女のために、助けられた人間があるはずである。
 その助けられた人間が、ちょうどこの頃江戸の郊外に、つく[#「つく」に傍点]然として坐っていた。
 ここは隅田の土手下である。
「十から八引く十一が残る! 今度こそとうとうこんなことになった。何しろ俺という岡引が、悪党に追われて逃げこんだからなあ。由来岡引というものこそ悪党を追っ掛けて行くものじゃアないか。世は逆さまとぞなりにけり」
 丁寧松事松吉である。
 背後《うしろ》に大藪が繁っていて、微風に枝葉が靡いていた。ここらは一面の耕地であったが、耕地にはほとんど青色がなかった。天候不順で五穀が実らず、野菜さえ生長《おいた》たないからであった。所々に林がある。それにさえほとんど青色がなく、幹は白ちゃけて骨のように見え、葉は鉄錆て黒かった。どっちを眺めても農夫などの、姿を見ることは出来なかった。
 丁寧松は考え込んだ。


20[#「20」は縦中横]

「さあどこから手を出したものか、からきし[#「からきし」に傍点]俺には見当が付かない。一ツとひとつ珠を弾くか! 柏屋の奥庭の開けずの間さ! ……二ツともう一つ珠を上げるか。久しい前から眼を着けていた、鮫島大学の問題さ。こいつもうっちゃって[#「うっちゃって」に傍点]は置かれない。敵意を示して来たんだからなあ。……三ともう一つ珠を弾くか。加賀屋の主人の行方不明さ。そうして倅の行方不明さ……もう一つ珠を弾くとしよう。宇和島という武士も問題になる。――四ツ事件が紛糾《こんがらか》ったってものさ。……ええとところで四ツの中で、どれが一番重大だろうかなあ?」
 事件を寄せ集めて考え込んだ。
「四ツが四ツお互い同士、関係があるんじゃアないかしら?」
 そんなようにも思われた。
「とすると大変な事件だがなあ」
 関係がないようにも思われた。
「関係があろうがなかろうが、どっちみち皆大事件だ。わけても柏屋の開けずの間が、大変物と云わなければならない。人間五人や十人の、生死問題じゃアないんだからなア。……日本全体に関わることだ。……」
 藪で小鳥が啼いている。世間の飢饉に関係なく、ほがらかに啼いているのである。
 つく[#「つく」に傍点]ねんと坐っている松吉の、膝の直ぐ前に桃色をした昼顔の花が咲いている。
 と、蜂が飛んで来たが、花弁を分けてもぐり[#「もぐり」に傍点]込んだ。人の世と関係がなさそうである。
「と云ってもう一度柏屋へ行って、探りを入れようとは思わない。こっちの命があぶないからなあ。……鈴を振る音、祈祷の声、……その祈祷だったが大変物だった。……それからドンと首を落とした音! ……いや全く凄かったよ」
 思い出しても凄いというように、松吉は首を引っ込ませた。
「そいつ[#「そいつ」に傍点]の一味に追われたんだからなあ。逃げたところで恥にはなるまい」
 こう呟いたが苦笑をした。やっぱり恥しく思ったかららしい。
「いやいい所へ逃げ込んだものさ」
 女役者の扇女《せんじょ》の家へ、せっぱ詰まって転げ込み、扇女の侠気に縋りつき、扇女が門口に端座
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