ことが出来そうである。つまりそんなにも建物と建物の周囲《まわり》は陰気なのであった。
 周囲の繁った木立によって、一切外界と交渉を断ち、一劃をなした別世界に、一種威嚇的な空気を纏い、物云わず立っている気味の悪い存在! それが離れ座敷の姿であった。
 だからその前に立った人は、そういう空気に圧迫され、逃げ出してしまうに相違ない。
 にも拘らず松吉は、怖くはないよと云いたそうに、胸の辺りで腕を組み、大工が普請でも見るように、家の周囲を廻りながら、仰向いて見たり俯向いて見たり、一向暢気そうに眺め出した。
「今朝方|箒目《ほうきめ》をあてたと見え、地面も縁の上も平《なら》されている」
 口の中での呟きである。
「おや木の枝が折れてるぜ」
 たしかに一所木の枝が、無理に乱暴に折り取られている。
「腰でもかけて休もうかい」
 ――縁へ腰をかけた丁寧松は、後脳を雨戸へ押し付けて、ぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]空を眺めたが、どうやら本当はぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と、空を眺めているのではなく、何かを聞き澄ましているのらしい。
「いい天気だなあ、鳥が啼いていらあ」
 梢で雀が啼いている。
「宇和島というお侍、高価な物でも持っているのか、人に怨みでも受けているのか、とにかく何者かに狙われているらしい。だから大勢の者に切りかけられたり、贋加賀屋の手代どもに、こんな旅籠へ連れ込まれたり……さあその贋加賀屋の手代の一人が、宇和島という侍の隣り部屋へ、泊まり込んだということだが、そうして今日の明方早く、立去って行ったということだが、こいつがどうにも眉唾物だて」
 ――番頭の言葉と婢女《はしため》の言葉、それを綜合して丁寧松は、推理と検討とに耽りだした。
 その間も松吉は縁の上などを、こっそり掌《てのひら》で撫でまわした。
「縁の上にひどく砂があるなあ。縁近くの庭で取っ組み合いでもしたら、縁の上へ砂ぐらい刎ね上るだろうよ。……ところで宇和島という侍だが、この旅籠から消えたとは何ということだ。……二から一引く一残る! これが十呂盤《そろばん》の定法だが、この事件はそうでねえ、二から一引く皆な消えっちゃった! 侍も手代もきえっちゃった。……こんな解《わか》らぬ話ってねえ。……ナーニこいつアこうなるのさ。……宇和島というお侍さん、身の危険を感じたので、贋手代を気絶でもさせて、そいつの衣裳をひん[#「ひん」に傍点]剥いて、自分の衣裳の上へ着て――着ふくれ[#「ふくれ」に傍点]ていたっていうことだからな――手代に化けてこの旅籠から、脱出して行ったというものさ。……行燈の火が消えたという。案内の女中に化けた姿を、感付かれまいために宇和島という武士が、行燈の側を通る時、袂でも振って消したのさ。……さて疑問として残るのは、衣裳を剥がれた贋手代の、可哀そうな身柄がどこにあるかってことさ……」
 この時開けずの間の建物の中から、物の気勢《けはい》が聞こえてきた。
「いつからともなく柏屋の庭に、開けずの間という建物があって、一切人を内へ入れず、一切人を寄せ付けず、厳《おごそか》に鎮座ましますと、世間の噂に立つようになったが、どう考えてもおかしいよ」
 口の中での呟きである。
「どだい建物というものは、人が住むために建てるものだ。人の住めない建物なら、さっさと壊すがいいじゃアないか。そんな建物を建てて置く! どうでも二二ンが四じゃアない」
 胸の中で珠算をやり出した。
「もっとも」と、これも口の中である。
「お宮と云ったような建物もある。だがもしそいつ[#「そいつ」に傍点]がお宮なら、神様が住んでいなけりゃアならない。……となすとここの建物にも、神様が住んでいるのかな」
 頭が一方へ傾いて行く。ピッタリ片耳が戸へあたる。
「うむ!」と突然丁寧松は、呻《うめき》の声を洩らしたが、
「やりゃアがったな!」と飛び上った。
「ヤイ!」と怒鳴ったが鋭い声だ。
「殺生な真似をしやアがるな! 丁寧松だ! 見現わしたぞ!」
 だがその次の瞬間には、非常な危険を直感した、猟り立てられた獣のように、庭を駆け抜け、主母《おもや》を駆け抜け、往来へ飛び出してしまったのである。
 すると、その時音も立てず、離れ座敷の雨戸が開いたが、その隙間から見えたのは、一人の女の姿であった。身に行衣を纏ってい、左手に御弊《ごへい》を握っている。しかし右手に下げているのは、血に塗られた短刀であった。御弊に仕込まれた懐刀らしい。美しいことも美しいが、その凄さは二倍と云えよう!
 髪を頸《うなじ》に束ねている。それで額が三角形に見える。ぼうぼうと[#「ぼうぼうと」に傍点]毛ば立った太い眉、耳まで続いていないだろうか? そう思わなければならない程、延々と長く引かれている。だがその下に凝然と、見据えられた眼を見た人は、あ
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