ず、安閑として眺めている。……これでは幕府の存在は、有害であって無益ではないか! すべからく天下に罪を謝し、政治《まつりごと》を京師《けいし》へ奉還し、天皇様御親政の日本本来の、自然の政体に返すべきじゃ!」
「先生々々、もうその御議論は……」
矩之丞は四辺《あたり》り[#「四辺《あたり》り」はママ]を憚って、押止めるように手を振った。
「うむ、よしよし」と中斎は頷き、しばらく沈黙していたが、
「矩之丞」と秘めた声で、
「こういう内外の悪情勢に際し、何が最も恐ろしいか、何を最も戒心すべきか、知っておるかな? 心得ておるか?」
「…………」
「外国渡来の悪思想、及び悪い宗教じゃ」
「これはごもっともに存じます」
「外国渡来の悪趣味の娯楽、これも注意して打倒しなければいけない」
「ごもっともに存じます」
「外国渡来の悪宗教といえば、過ぐる年わしは吉利支丹信者の、貢《みつぎ》という巫女を京都《きょうと》で捕らえ、一味の者共々刑に処したが……」
「これは与力でおわしました頃の、先生のお手柄の随一として……」
「いやいや自慢をするのではない。心にかかることがあるからじゃ」
「…………」
「貢の門下にお久美というしたたか者の女がいたが、それをあの際取り逃がしてのう」
「久美なら私も存じておりまする」
「どこへ行ったものか行衛《ゆくえ》が知れない。……これが心にかかっておる。……引っ捕らえて刑に処せねばと……」
急に矩之丞は別のことを云った。
「二三ヶ月前に入門いたしました、飛田《ひだ》庄介、前川満兵衛、それから山村紋左衛門、ちと私には怪しいように……」
「どういう意味かな、怪しいとは?」
不思議だというように中斎は訊いた。
「隠密などではありますまいかと」
「これこれ」と中斎はにわかに笑い、
「お前は俺《わし》の前身を、もう忘れてしまったと見える」
「は、何事でございますか」
「俺は以前は与力だったよ。だからこの俺の塾内に、そのような隠密など入り込んで居れば、観破しないでは置かないはずだよ」
「これはごもっともに存じます」
矩之丞は苦笑した。
部屋内しばらく静かである。
と、中斎は静かに訊いた。
「例の物を平野屋が江戸へ送る、ハッキリした日取りは解《わか》って居るかな?」
「それはまだ不明にございます」
「是非とも探って確かめるよう」
「かしこまりましてございます」
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