野屋では例の物を、江戸へ送るそうでございます」
「ふうんそうか、いよいよ送るか」
「どう致したものでございましょう?」
「そうさな」と中斎は考え込んだ。怒気とそうして憂色とが、いよいよ色濃くなってきた。
「やっぱりこっちへ取り上げることにしよう」
「はい」と云ったが矩之丞の顔には、不安と危惧《おそれ》とが漂っている。
「後世史家が何と申すやら、この点懸念にござります」
「うむ」と云ったが大塩中斎も、苦渋の表情をチラツカせた。
「拙者もそれを危惧ている。と云って目前の餓鬼道を見遁しにしては置けないな」
「先生の御気象と致しましては、御理《ごもっとも》千万に存ぜられます」
「俺は蔵書を売り払って、二万両の金を手に入れたが、日に日に増える窮民を、救ってやることは不可能だ」
「限りない人数でございますので」
「それで、断行しようと思う」
「はい」と云ったが宇津木矩之丞はやっぱり顔を曇らせている。
「本来けしからぬは徳川幕府じゃ。……その幕府の存在じゃ」と、中斎は日頃の持論の方へ、話の筋を向けだした。
「日本は神国、帝は現人神、天皇様御親政が我国の常道、中頃武家が政権を取ったは、覇道にして変則であるが、帝より政治をお預かりし、代って行なうと解釈すれば、認められないこともない。……しかしそれとて条件があって、国内《うち》は四民に不満なく、国外《そと》は外国《いこく》の侵逼《しんひつ》なく、五穀実り、天候静穏、礼楽ことごとく調うような、理想的政治を行なうなれば、預けまかせ[#「まかせ」に傍点]ておいてもよかろう。……しかるに現今の徳川幕府の、政治の執り方はどうであるか? 北からはロシアが北海道をうかがい、西からはイギリスが支那を犯し、香港《ホンコン》島を占領し、その余威を籍《か》りて神国日本へ、開港を逼ろうとして虎視眈々じゃ。……さらにイギリスの双生児ともいうべき、アメリカ国に至っては、その成り上り者の根性をもって、傍若無人に日本に対し、同じく開港を強いようとしている。……それに対して徳川幕府は、特別に兵備をととのえようともせず、海岸防備を試みようともせず、外侮を受けようとしているのじゃ。……しかして国内の有様はどうか? 上は将軍家をはじめとし、台閣《だいかく》諸侯、奉行輩、奢侈に耽り無為に日を暮らし、近世珍らしい大飢饉が、帝の赤子を餓死させつつあるのに、ろくろく救済の策さえ講ぜ
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