自分の屋敷へ帰ろうと、宇津木矩之丞が只一人で、中斎の屋敷を立ち出たのは、その夜もずっと更けてからであった。
 思案に暮れて歩いていたためか、道を取り違えて淀川縁へ出た。




「去年からかけて天候不順、五穀実らず飢民続出、それなのに官では冷淡を極め、救恤《すくい》の策を施そうともしない。富豪も蔵をひらこうともしない。これでは先生が憤慨されるはずだ。とは云え他人の大切なものを、横取りをして金に換えたら、盗賊とより云うことは出来ない。それを先生にはやろうといわれる。俺には正当に思われない。そればかりならともかくも、兵を発し乱を起こし、城代はじめ両奉行をも、やっつけて[#「やっつけて」に傍点]しまおうとの思し召し、成功の程も覚束ないが、よしや成功したところで、乱臣の名は免れまい。……あれほど明智だった中斎先生も、近来は少しく取り違えて居られる。……狂ったのかな、あの明智も……」
 考え考え考えあぐみ、木立のある所まで来た時であった。卑怯にも左右から声も掛けず、何者か二人切り込んで来た。
「おっ」と叫んだがそこは手練、宇津木|矩之丞《のりのじょう》剣道では、一刀流の皆伝である、前へパッと飛び越した。
 と、もう引き抜いていたのである。
「無礼! 誰だ! 宣《なの》らっしゃい! 拙者宇津木矩之丞、怨みを受ける覚えはない」
 ピッタリ青眼に太刀を構え、先ずもって声をこう掛けた。
 二人ながら返事をしなかった。星空の下に突っ立っている。そうしてヂリヂリと逼って来る。
「はてな?」と矩之丞が呟いたのは、敵に見覚えがあったからである。そこで、怒声を浴びせかけた。
「やあ汝《おのれ》は同門の、飛田庄介に前川満兵衛! 何と思って切ってかかったぞ?」
 だがここまで云って来て、急に矩之丞は口を噤《つぐ》んだ。
「いよいよこいつら隠密だわえ。それと観破したこの俺を、邪魔にして殺そうとするのらしい。いやかえって面白い。知れた手並だ、叩っ切り、中斎先生の身辺から、危険分子を払ってやろう」
 ――矩之丞はそこでヌッと出た。
 だが、何と危険なんだ、又も一つの人影が、木立の陰から現われたが、矩之丞の背後へシタシタと寄った。
 途端に飛び込んで来た前面の敵、すなわち飛田と前川が、鋭く声を掛け合ったのは、牽制しようとしたのだろう。果然、同時に、背後の敵、こいつは無言で抜き持った太刀で、矩之丞の背骨
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