くお久美へ追い付いたが、
「天誅!」と叫ぶと背後袈裟《うしろげさ》に、右肩から背筋へまで斬り付けた。
 龕が投げられ、悲鳴が起こり、お久美が倒れてノタ打つのを、宙へ舁《か》きのせたが狂信者の群は、矩之丞の手並に恐れたのであろう、往来の方へなだれ出た。
 もう追おうともしなかった。宇津木矩之丞は血刀を拭うと、ソロリと鞘へ納めたが、
「何か加賀屋にあったようだ」
 裏木戸までスルスルと引っ返した時、その裏木戸が中から開けられ、
「お武家様いかがでございました」
 岡引の松吉が顔を出した。
「ちょっとお入り下さいまし、加賀屋の主人と若旦那とが。……」
「源右衛門殿がな」と入ったが、やがて遠々しく声がした。
「や、若主人が源右衛門殿を!」
「ナーニ、からくり[#「からくり」に傍点]でございます」
 岡引の松吉の声である。

 一方鮫島大学の身にも、一つの事件が起こっていた。
「さあさあ方々出動なされ、面白い芝居が打てましょうぞ。……火の手は上った。燃え上った。役目をしようぞ、風の役目を!」
 火事場泥棒の心持である。ぶちこわし[#「ぶちこわし」に傍点]の騒動に付け込んで、悪事をしようと企んだのである。
 自分自身が真っ先に立ち、混乱の巷へ押し出した時、一人の乞食が走って来たが、チラリ大学を横目で見ると、掠めるようにして馳せ違った。
「はてな、彼奴《きゃつ》は?」と鮫島大学は、背後の方を振り返ったが、もうその時には乞食の姿は、暴徒に紛れて見えなかった。
 しかし乞食は立ち去ったのではない。大学の屋敷の裏手の方に、身を潜《ひそ》めていたのである。
 と板壁へ手をかけた。そうして次の瞬間には、屋敷の内側へ飛び込んでいた。
 探すものでもあるのだろう。足音を盗んで入って行く。
 一つの部屋の前へ来た時である。唄うような女の声がした。
 扉を押しひらいた乞食の上州は、
「お妻殿か!」
「たあれ、貴郎《あなた》は?」
 上海《シャンハイ》風の部屋の中に、上海風の寝台があり、上海風の阿片食《アヘンくい》のお妻が、阿片の吹管を抱きながら洞然とした眼で見詰めている。
「拙者でござる。探しに来ました! ……それでもとうとう目つかった! ……ああそれにしても変わられたことは! ……」
 凝然として突立った。
「これが支部長の令嬢か! これが俺の許嫁《いいなずけ》か! 生ける死骸だ! 生ける死骸だ
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